- 1: 名前:管理人投稿日:2000/12/05(火) 00:49
- 将棋界のミステリーの一つだそうです。

- 60: 名前:けむり投稿日:2006/06/13(火) 14:15
- けむり
- 61: 名前:けむり投稿日:2006/06/24(土) 17:05
- けむり
- 62: 名前:KOHITSU投稿日:2006/06/30(金) 13:46
- 大橋宗與の消息について
≫46,53
『将棊手鑑』上下二巻(伊藤宗印編、山崎清七版)には、天野宗歩の宗印・宗\xFBa・柳雪らとの棋譜はあっても、『将棋精撰』嘉永六年刊にある宗歩・仙吉(宗與)戦の棋譜はありません。名寄表に名前もありません。この再刊本の版権免許は明治10年1月31日付となっています。前年12月頃には免許の準備をしなければならないはずですが、この時点で何か支障があったので宗印が削除したものと考えられます。さらに、明治10年11月新剣『東都将棋鑑』も、勧進元伊藤宗印、差添大橋宗金で、宗與の名はありません。宗與の名を憚ることがあったとすると、その理由は宗與の入獄でしょう。
ところで、番付や対局集を見た棋客や旦那衆はどう考えたでしょうか。大橋宗與の名が何故ないのかと詮索しないはずはありません。一体どのような説明がなされたのでしょうか。
少なくとも『将棋姓名録』(大橋宗與編、明治4年刊)に名のある大橋分家派の棋客や、大矢東吉・関澄伯理・登加理永祜・平岩米吉〔本所五の橋の竹問屋上総屋主人、東京府学務委員など歴任、三千坪の屋敷跡は現在平岩公園。孫の平岩米吉(1898〜1986)は動物行動学者として優れた仕事をしましたが、将棋や連珠の高段者としても有名。『近世将棋巨匠の手合』(昭和7年、白日荘版、原評 伊藤宗印、解説 土居市太郎)を編纂。平岩氏のご子孫は健在〕などは事の真相や宗與の消息を知っていたと考えるべきでしょう。彼らの証言記録や如何に、ということです。
大矢東吉によれば、大橋宗與の七段昇段を許諾しない伊藤宗印を説得し、承諾を得るために尽力したのが東吉とのことで、逆にこのことの因縁もあって伊藤宗印の昇段・名人襲位に反対したのが大橋宗與であったとのことです。
大橋宗與は、宗印派の藤堂伯に対抗するため島津公に取り入ろうとして島津家用達の某に騙され、約一千円の借金を抱え、逃れて所沢の大矢東吉を頼った。東吉が計を授け東京に帰らせたが、その計もかなわず、負債の穴埋めに不正を働き、懲役となってしまった。五年の刑期を終え出牢したが、棋界は宗印名人の時代となっており、家元を示す縁の品々は宗金に取り上げられ、家元として世に出ることもできず(死んだことにして世に隠れた、または獄死したと発表されてしまっていた)、まもなく過労のため苦悶の中で病死した。 (『大矢東吉事歴』)
このような当時の証言の方が真実に近いように感じます。「分家の大橋宗與は或る事件で入獄したので懲役より帰って後には世に出られず」(『将棊新報』第13巻第3号)という説は、この辺りを根拠にしているのでしょうが、「宗與明治十年罪あり獄に繋がれ五年間懲役となる。十四年十一月獄中に卒す。子なし、女一人あり。家絶ゆ。」(『将棋手続』)という獄死説よりも無理がない気がします。私は獄死説より出獄後の隠遁、後に病没(コレラ死)説を採りたいですね。
なお、大橋宗與捕縛の件、当時発行された新聞のゴシップ欄(有名人の消息記事)では何と書かれたのでしょうか。本因坊秀悦発狂事件なども「発狂して刃物をふり廻す」として『東京日日』(明11.6.13)に記事が掲載されています。詳しい調査を行ったならば宗與関連の記事が見出せるのではないでしょうか。
- 63: 名前:KOHITSU投稿日:2006/06/30(金) 13:51
- 大橋宗與の消息について
>56 家禄奉還後、明治9年頃迄、大橋宗與は山伏井戸の屋敷の直ぐ近くの薬研堀町に住んで(その土地も所有して)いました。…
家禄奉還後、大橋宗與が山伏井戸の屋敷の直ぐ近くの薬研堀町18番地イに住み、その土地(面積68坪)も所有していたことが、明治6年『沽券圖』と同年『東京地主細覧』により確認できます。ところが、明治9年9月21日板権免許・同年11月刊の『東京各区地主名鑑』には名前がありません。
さて、地主名鑑編者は竹内蠖亭(かくてい。平民医業と肩書にあり、明治10年『虎列刺病の説』、明治13年『随感随筆 盛世餘談』、『明治百商伝 起業秀才』の著者)であり、この人物は薬研堀町の大橋宗與の西隣(薬研堀町18番地ロ)に住んでいた人物です。もうお分かりでしょうか、この時期の宗與を知る人物が竹内蠖亭なのです。
『地主名鑑』の該当地番の箇所だけが別の手になる文字で書かれており、このことはこの部分のみが急遽修正されたことを示しています。宗與の土地だった所は、「久松丁 大山福蔵」の所有と記されています。宗與はこのとき既に東京を出奔していたか、または家主預けの身となっていたと考えられます。
明治11年『東京地主案内』や明治14年『東京府改正地券所有明細録』には、勿論大橋宗與の名はなく、竹内蠖亭の名もありません。竹内蠖亭もこの地を去っています。竹内蠖亭の土地は、根本治兵ヱのものとなり、後には宇田川又兵ヱ(石工)が住み、熊谷卯八が地券者(地主)でした。
【本稿は、56(投稿日2005/02/24)の続きとして書かれていたものです。不要原稿の廃棄中、ただ捨てるのも勿体無いと思い、同郷同学の後輩松本博文(mtmt)氏の疑問に答えるため、少しばかり書き換えて投稿します。本掲示板は学術的なものでなく、まして私のような門外漢が投稿するのですから、典拠資料の説明等の煩瑣な部分は省略しました。
今後どれだけ本掲示板を閲覧したり関連事項を投稿したりする機会があるかは分かりませんが、関心をお持ちの方がおられるようでしたら、暇をみて続稿を投じるようにしましょう。なお、文芸分野での「半睡先生」名での投稿も「KOHITSU」によるものです。】
- 64: 名前:mtmt投稿日:2006/08/14(月) 01:57
- 興味深いご投稿、ありがとうございます。
昨日東京湾の花火を見に隅田川沿いを歩いていた際、近くのどこかに
行きたいところがあったのだけれど、さてどこだったかと思っていました。
そうか、山伏井戸のあたりだったのか。
- 65: 名前:KOHITSU投稿日:2006/08/20(日) 08:54
- ≫63
竹内蠖亭の住所は、明治13年7月出版『東京商人録』(明治13年4月10日免許)の医師の部では、まだ明治6年『沽券圖』と同年『東京地主細覧』と同じく「薬研堀町十八番地イ」でしたが、明治13年12月出版『明治百商伝 起業秀才』(明治13年9月28日免許)の奥付では『日本橋馬喰町二丁目十五番地』です。明治14年2月出版『東京府改正地券所有明細録』(明治13年12月10日免許)の馬喰町二丁目に竹内蠖亭や竹内姓の人物は掲載されていないので、そこは借家であったか、出版のため名義借りであったと思われます。
ところで、その隣の「日本橋馬喰町二丁目十四番地」に土地を所有していたのは、鹿島清吉でした。
鹿島清吉は、木場の材木商鹿島清左衛門の長男で嘉永六年(1856)生れ、後に清左衛門の名を継ぎますが、店や居宅は深川区島田町7にありました。鹿島一族は清左衛門・清吉・清次郎(深川区島田町3)・清四郎(深川区数矢町15)などいずれも木場の材木問屋・材木商でした。愛棋家として宗印や五平の贔屓筋のこの一族は、明治期の将棋番付に別名(俳号)で掲載されています。
嘉永七年の幕府御用金の割付に関する記録では、深川島田町鹿島屋清左衛門(先々代)千五百両、鹿島屋清吉(後、先代清左衛門)三百両と記されています。「鹿島屋」は「鹿児島屋」に因むといわれ、大名用達の豪商として羽振りを利かせました。明治後期には家業は衰退し往時の力はなくなりましたが、鹿島清左衛門は、明治10年『東京持○鑑』では東小結、明治27年『持丸長者鑑』では西前頭でした。
小野五平、伊藤宗印と鹿島清左衛門・清吉との関係は、資金援助や鹿島邸〔旗本内藤駿河守の下屋敷跡に明治5年から作られた鹿島邸は、扇橋の九平という作庭師の手になる汐入の池・名石奇岩・樹木・多数の石燈籠などのある敷地千坪余の屋敷〕での将棋会の開催などが広く知られています。宗與、竹内蠖亭、鹿島清吉・清左衛門の関係や如何にというところです。〔続〕
付記
大橋家の墓についても、機会があれば投稿したいと思いますが、とりあえず本スレッドで言及されていることに関して、
\x87@≫5。大橋分家の宗旨は法華宗です。大橋本家、伊藤家も法華宗です。囲碁方も、本因坊家、安井家、井上家は法華宗、林家は浄土宗です。家元が存在した時代には、葬儀などでは、囲碁方が将棋方の世話役を勤め、将棋方が囲碁方の世話役を勤めることになっていました。
\x87A≫1。大橋宗與(勝田仙吉)は、天保八(1837)年の生まれではないでしょうか。
- 66: 名前:KOHITSU投稿日:2006/09/29(金) 11:22
- >63 鹿島清吉は、木場の材木商鹿島清左衛門の長男で嘉永六年(1856)生れ、後に清左衛門の名を継ぎますが、店や居宅は深川区島田町7にありました。鹿島一族は清左衛門・清吉・清次郎(深川区島田町3)・清四郎(深川区数矢町15)などいずれも木場の材木問屋・材木商でした。愛棋家として宗印や五平の贔屓筋のこの一族は、明治期の将棋番付に別名(俳号)で掲載されています。
投稿内容についての問合せがあったので、少し補足をします。
鹿島清左衛門一族は、将棋や東都相撲会の関係では牛谷氏と記されています。傍証の一つを挙げると、慶應四戌辰『大日本将棋有名集』小林東四郎編には、牛谷露滴、牛谷清四郎、牛谷清次郎、牛谷清吉、牛谷清三郎などの名が記されており、牛谷露滴は当時の鹿島清左衛門です。そして、明治期の伊藤宗印編の番付では、牛谷露滴、牛谷春甫、牛谷藻鯉、牛谷晴朝、牛谷馬泉、牛谷牛政などと記されています。なお、牛谷駒との関連で「牛谷露滴等は関根金次郎の贔屓筋」などと書かれている方がいますが、時代が異なります。正しくは伊藤宗印や小野五平の贔屓筋です。
- 67: 名前:鹿島屋投稿日:2007/10/05(金) 09:27
- 鹿島一族と鹿島屋は、別物なんですよ
鹿島一族は、兵庫県伊丹の酒蔵を持ついわゆる酒問屋
今は、鹿島屋を名乗っていますが、本来皆さんの言う鹿島屋は、
徳島県小松島に本拠を持つ物で其処に勤める番頭衆は、鹿島屋と名乗っておりました
因みに井上家は、浄土宗ですよ
詳しくは、徳島県立文書館に古文書が保管されています
- 68: 名前:鹿島清夫投稿日:2008/01/22(火) 18:58
- 鹿島屋のルーツは、兵庫県高砂市(姫路市)牛谷でございます。従いまして鹿児島は、全く関係は、ございませんです。尚、当家の親戚には、牛谷姓を名乗っている方もございます。多分 将棋駒 製作された方も一族の誰かさんだと思うのですが…?と思います。
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