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1 :阪田三吉(122)  2 :5世名人二代伊藤宗印(30)  3 :大橋分家の墓はどこにある?(九代大橋宗与七段)(68)  4 :四宮金吾(03)  5 :13世名人関根金次郎(118)  6 :玉と王はどちらが「正しい」のか?(87)  7 :古典板雑記帳(04)  8 :花田長太郎九段(08)  9 :大橋本家の墓(伊勢原市・上行寺)(26)  10 :関澄伯理七段(07)  11 :2世名人大橋宗古(10)  12 :池田菊女(6)  13 :柳沢保恵(05)  14 :越智信義(07)  15 :時田慶三郎七段(17)  16 :盲人棋客の系譜(05)  17 :福井資明九段(24)  18 :伊藤家の墓(東京・本法寺)(98)  19 :白土誠太郎七段(13)  20 :大橋分家の住所(18) 
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1: 阪田三吉  レス数30でのページ 1 2 3 4 5  全レス

01: 名前:管理人投稿日:2001/07/20(金) 06:12
将棋史上、最高のヒーローでしょう。

114: 名前:mtmt@元学生投稿日:2005/07/24(日) 08:13
まあ、要するに時期が悪いという要素があまりに大きい、
ということでしょうか。
ほとんどの大学が試験期間中でしょうし。

115: 名前:川嵜投稿日:2005/07/24(日) 08:42
逆に言うと昔の将棋部員は
試験期間なんて関係なかったんですね

116: 名前:じゃんじゃん横丁投稿日:2005/10/12(水) 19:40
にいってきましたが昔の風情はもうないね・・・
坂田三吉翁もなげいていらっしゃることじゃろうて・・

117: 名前:けむり2投稿日:2005/11/01(火) 21:29
太田学さん、まだじゃんじゃん横丁の三桂クラブにいるんかな?

堺市の阪田三吉杯は盛況やのにな、、、時代の流れだな

118: 名前:mtmt投稿日:2006/07/23(日) 23:16
今日は阪田の命日で、アタック25でも出題されたようですね。

119: 名前:来生雨処投稿日:2007/11/27(火) 23:49
「王将」のひ孫はバイオリニスト 孫弟子と西宮で対面
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200711270041.html

120: 名前:Inchworm投稿日:2008/03/14(金) 13:59
【横浜古物】 将棋盤 榧 坂田三吉 「 馬 」 昭和6年
http://page15.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/t66682037
本物に見えなくもないのですが、4つの点が長くないので
入札をためらっています。

【尚】 ■ 坂田三吉 筆 《 将棋初段 免状 》 共箱 軸装
http://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/96170502
棋神 阪田三吉 中村浩書 で当時の免状が巻物式であるのを
知ったのですが、現存するんですね。
中村眉山書かそのご子息(お名前を失念、書庫に行かないとわかりません)
どちらなんでしょうかね。

121: 名前:来生雨処投稿日:2008/05/15(木) 23:21
将棋の阪田三吉の筆 故郷・堺市に寄贈
http://www.47news.jp/CN/200805/CN2008051501000396.html

122: 名前:来生雨処投稿日:2008/05/18(日) 21:39
>>121
阪田三吉の筆、生誕地の堺に 孫と孫弟子の交流きっかけ
http://www.asahi.com/shougi/news/OSK200805140094.html

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2: 5世名人二代伊藤宗印  全レス

1: 名前:mtmt投稿日:2000/12/09(土) 00:57
本名鶴田玄庵(または幻庵)。
初代伊藤宗看(3世名人)の養子にして、三代宗看(7世名人)、
看寿(贈名人)の父。
『将棋勇略』、『将棋精妙』(別名ならず百番)を残した人物でもある。

21: 名前:mtmt投稿日:2003/03/04(火) 04:52
金田一京助「将棊名義考」より。
テキストは「金田一京助全集(12)」(三省堂、1993年刊)を見ました。

…伊藤家は初代宗看の後、鶴田幻菴これを嗣ぎて宗印と号し、また
九段に至り、六男を生む。長印達十五歳技五段に至りて夭せしも、次
印寿(九段)これを嗣ぎて二世宗看と成り、三男宗寿(九段)・四男
看恕(七段)・五男看寿(贈九段)・六男得寿(五段)あり。即ち
三男宗寿いでて大橋家を襲ひ、五世宗桂となる。これにおいて伊藤家
の一門この界を横圧す。…


宗印に六男ありというを読んで、あれ、そうだったのか、と驚きました
が、伊藤家四代の得寿五段は三代宗看の子(すなわち宗印の孫)ですね。
将棋界の慣例では家督の順は一般的に、初代、二代とカウントするので
ややこしいですが、

二世宗看…伊藤家三代宗看(7世名人)
五世宗桂…大橋本家八代宗桂

でしょうか。
「三男宗寿(九段)」=八代宗桂は名人には届かず、八段ですね。

★金田一京助…1882(明治15)年〜1971年。
↓金田一京助業績・生涯(盛岡市)
http://www2.city.morioka.iwate.jp/m-facility/senjin/kindaiti1.htm

★「将棊名義考」…「明治43年『日本百科大辞典』の『しやうぎ』の執筆
項目として収録。選集収録時にタイトルを付す」とのこと。「世界におけ
る沿革」「支那における沿革」「我が国における沿革」の3章あり。幸田
露伴「将棋雑話」は明治34年。

★三代宗看…1761(宝暦11)年7月29日没。享年56歳。
★四代得寿…1763(宝暦13)年10月29日没。享年24歳。

あと、

誤:伊藤銀宗
正:伊藤宗銀

誤:大橋宗定英跡集
正:大橋宗英定跡集

というのがありましたが、こちらは多分、ただの誤植ですね。

22: 名前:mtmt投稿日:2003/03/04(火) 06:44



「詰むや詰まざるや」や「将棋文化史」を参考にして作ってみました。
生年や没年は適当に計算したところがあるので、非常に自信がありません。

24: 名前:ざる校正者投稿日:2003/06/03(火) 17:33
意味なくあげてしまった……。

「他者の文章で誤記・誤植を見つけたら、必ず自分の文章に誤記・誤植を出す」

私版のマーフィーズ・ローです。

25: 名前:mtmt投稿日:2003/06/04(水) 07:44
>>21
あれ、いま手元に資料「将棊名義考」がなくてよくわからないんですが、
「伊藤宗銀」って、誰ですか(^-^;)
初代宗看の子で、大橋本家の養子となった五代宗桂の方かな。

26: 名前:mtmt投稿日:2008/03/14(金) 08:09
↓徳川家の将棋盤を有田焼で(asahi.com)
http://www.asahi.com/life/update/0312/SEB200803120009.html

>>3
今度佐賀を訪れた際には、忘れずに鎮道寺を訪れてみたいと思います。

27: 名前:mtmt投稿日:2008/03/14(金) 08:11
>>9
↓功山寺
http://www.npweb.com/kouzanji/

長府で一番有名な寺ですね。

28: 名前:mtmt投稿日:2008/03/14(金) 08:16
>>14
↓有馬晴信(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E6%99%B4%E4%BF%A1

岡本大八事件に代表される徳川体制内部での権力闘争って、寒々しいものを
感じますね。

29: 名前:来生雨処投稿日:2008/03/16(日) 20:18
>>26
葵の紋入り将棋盤を磁器で復刻
http://www.saga-s.co.jp/view.php?pageId=1036&blockId=820727&newsMode=article

30: 名前:mtmt投稿日:2008/03/28(金) 16:36
幻庵といえば、隣りの囲碁界では幻庵因碩(11世井上因碩、1798〜1859)、
戦国期には幻庵宗哲(北条長綱、1493〜1589)が有名のようですね、とメモ。

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3: 大橋分家の墓はどこにある?(九代大橋宗与七段)  レス数30でのページ 1 2 3  全レス

1: 名前:管理人投稿日:2000/12/05(火) 00:49
将棋界のミステリーの一つだそうです。


60: 名前:けむり投稿日:2006/06/13(火) 14:15
けむり

61: 名前:けむり投稿日:2006/06/24(土) 17:05
けむり

62: 名前:KOHITSU投稿日:2006/06/30(金) 13:46
大橋宗與の消息について

≫46,53
『将棊手鑑』上下二巻(伊藤宗印編、山崎清七版)には、天野宗歩の宗印・宗\xFBa・柳雪らとの棋譜はあっても、『将棋精撰』嘉永六年刊にある宗歩・仙吉(宗與)戦の棋譜はありません。名寄表に名前もありません。この再刊本の版権免許は明治10年1月31日付となっています。前年12月頃には免許の準備をしなければならないはずですが、この時点で何か支障があったので宗印が削除したものと考えられます。さらに、明治10年11月新剣『東都将棋鑑』も、勧進元伊藤宗印、差添大橋宗金で、宗與の名はありません。宗與の名を憚ることがあったとすると、その理由は宗與の入獄でしょう。
ところで、番付や対局集を見た棋客や旦那衆はどう考えたでしょうか。大橋宗與の名が何故ないのかと詮索しないはずはありません。一体どのような説明がなされたのでしょうか。
少なくとも『将棋姓名録』(大橋宗與編、明治4年刊)に名のある大橋分家派の棋客や、大矢東吉・関澄伯理・登加理永祜・平岩米吉〔本所五の橋の竹問屋上総屋主人、東京府学務委員など歴任、三千坪の屋敷跡は現在平岩公園。孫の平岩米吉(1898〜1986)は動物行動学者として優れた仕事をしましたが、将棋や連珠の高段者としても有名。『近世将棋巨匠の手合』(昭和7年、白日荘版、原評 伊藤宗印、解説 土居市太郎)を編纂。平岩氏のご子孫は健在〕などは事の真相や宗與の消息を知っていたと考えるべきでしょう。彼らの証言記録や如何に、ということです。

大矢東吉によれば、大橋宗與の七段昇段を許諾しない伊藤宗印を説得し、承諾を得るために尽力したのが東吉とのことで、逆にこのことの因縁もあって伊藤宗印の昇段・名人襲位に反対したのが大橋宗與であったとのことです。
大橋宗與は、宗印派の藤堂伯に対抗するため島津公に取り入ろうとして島津家用達の某に騙され、約一千円の借金を抱え、逃れて所沢の大矢東吉を頼った。東吉が計を授け東京に帰らせたが、その計もかなわず、負債の穴埋めに不正を働き、懲役となってしまった。五年の刑期を終え出牢したが、棋界は宗印名人の時代となっており、家元を示す縁の品々は宗金に取り上げられ、家元として世に出ることもできず(死んだことにして世に隠れた、または獄死したと発表されてしまっていた)、まもなく過労のため苦悶の中で病死した。 (『大矢東吉事歴』)
このような当時の証言の方が真実に近いように感じます。「分家の大橋宗與は或る事件で入獄したので懲役より帰って後には世に出られず」(『将棊新報』第13巻第3号)という説は、この辺りを根拠にしているのでしょうが、「宗與明治十年罪あり獄に繋がれ五年間懲役となる。十四年十一月獄中に卒す。子なし、女一人あり。家絶ゆ。」(『将棋手続』)という獄死説よりも無理がない気がします。私は獄死説より出獄後の隠遁、後に病没(コレラ死)説を採りたいですね。

なお、大橋宗與捕縛の件、当時発行された新聞のゴシップ欄(有名人の消息記事)では何と書かれたのでしょうか。本因坊秀悦発狂事件なども「発狂して刃物をふり廻す」として『東京日日』(明11.6.13)に記事が掲載されています。詳しい調査を行ったならば宗與関連の記事が見出せるのではないでしょうか。

63: 名前:KOHITSU投稿日:2006/06/30(金) 13:51
大橋宗與の消息について

>56 家禄奉還後、明治9年頃迄、大橋宗與は山伏井戸の屋敷の直ぐ近くの薬研堀町に住んで(その土地も所有して)いました。…
家禄奉還後、大橋宗與が山伏井戸の屋敷の直ぐ近くの薬研堀町18番地イに住み、その土地(面積68坪)も所有していたことが、明治6年『沽券圖』と同年『東京地主細覧』により確認できます。ところが、明治9年9月21日板権免許・同年11月刊の『東京各区地主名鑑』には名前がありません。
さて、地主名鑑編者は竹内蠖亭(かくてい。平民医業と肩書にあり、明治10年『虎列刺病の説』、明治13年『随感随筆 盛世餘談』、『明治百商伝 起業秀才』の著者)であり、この人物は薬研堀町の大橋宗與の西隣(薬研堀町18番地ロ)に住んでいた人物です。もうお分かりでしょうか、この時期の宗與を知る人物が竹内蠖亭なのです。
『地主名鑑』の該当地番の箇所だけが別の手になる文字で書かれており、このことはこの部分のみが急遽修正されたことを示しています。宗與の土地だった所は、「久松丁 大山福蔵」の所有と記されています。宗與はこのとき既に東京を出奔していたか、または家主預けの身となっていたと考えられます。
明治11年『東京地主案内』や明治14年『東京府改正地券所有明細録』には、勿論大橋宗與の名はなく、竹内蠖亭の名もありません。竹内蠖亭もこの地を去っています。竹内蠖亭の土地は、根本治兵ヱのものとなり、後には宇田川又兵ヱ(石工)が住み、熊谷卯八が地券者(地主)でした。

【本稿は、56(投稿日2005/02/24)の続きとして書かれていたものです。不要原稿の廃棄中、ただ捨てるのも勿体無いと思い、同郷同学の後輩松本博文(mtmt)氏の疑問に答えるため、少しばかり書き換えて投稿します。本掲示板は学術的なものでなく、まして私のような門外漢が投稿するのですから、典拠資料の説明等の煩瑣な部分は省略しました。
今後どれだけ本掲示板を閲覧したり関連事項を投稿したりする機会があるかは分かりませんが、関心をお持ちの方がおられるようでしたら、暇をみて続稿を投じるようにしましょう。なお、文芸分野での「半睡先生」名での投稿も「KOHITSU」によるものです。】

64: 名前:mtmt投稿日:2006/08/14(月) 01:57
興味深いご投稿、ありがとうございます。

昨日東京湾の花火を見に隅田川沿いを歩いていた際、近くのどこかに
行きたいところがあったのだけれど、さてどこだったかと思っていました。
そうか、山伏井戸のあたりだったのか。

65: 名前:KOHITSU投稿日:2006/08/20(日) 08:54
≫63
竹内蠖亭の住所は、明治13年7月出版『東京商人録』(明治13年4月10日免許)の医師の部では、まだ明治6年『沽券圖』と同年『東京地主細覧』と同じく「薬研堀町十八番地イ」でしたが、明治13年12月出版『明治百商伝 起業秀才』(明治13年9月28日免許)の奥付では『日本橋馬喰町二丁目十五番地』です。明治14年2月出版『東京府改正地券所有明細録』(明治13年12月10日免許)の馬喰町二丁目に竹内蠖亭や竹内姓の人物は掲載されていないので、そこは借家であったか、出版のため名義借りであったと思われます。
ところで、その隣の「日本橋馬喰町二丁目十四番地」に土地を所有していたのは、鹿島清吉でした。
鹿島清吉は、木場の材木商鹿島清左衛門の長男で嘉永六年(1856)生れ、後に清左衛門の名を継ぎますが、店や居宅は深川区島田町7にありました。鹿島一族は清左衛門・清吉・清次郎(深川区島田町3)・清四郎(深川区数矢町15)などいずれも木場の材木問屋・材木商でした。愛棋家として宗印や五平の贔屓筋のこの一族は、明治期の将棋番付に別名(俳号)で掲載されています。
嘉永七年の幕府御用金の割付に関する記録では、深川島田町鹿島屋清左衛門(先々代)千五百両、鹿島屋清吉(後、先代清左衛門)三百両と記されています。「鹿島屋」は「鹿児島屋」に因むといわれ、大名用達の豪商として羽振りを利かせました。明治後期には家業は衰退し往時の力はなくなりましたが、鹿島清左衛門は、明治10年『東京持○鑑』では東小結、明治27年『持丸長者鑑』では西前頭でした。
小野五平、伊藤宗印と鹿島清左衛門・清吉との関係は、資金援助や鹿島邸〔旗本内藤駿河守の下屋敷跡に明治5年から作られた鹿島邸は、扇橋の九平という作庭師の手になる汐入の池・名石奇岩・樹木・多数の石燈籠などのある敷地千坪余の屋敷〕での将棋会の開催などが広く知られています。宗與、竹内蠖亭、鹿島清吉・清左衛門の関係や如何にというところです。〔続〕

付記
大橋家の墓についても、機会があれば投稿したいと思いますが、とりあえず本スレッドで言及されていることに関して、
\x87@≫5。大橋分家の宗旨は法華宗です。大橋本家、伊藤家も法華宗です。囲碁方も、本因坊家、安井家、井上家は法華宗、林家は浄土宗です。家元が存在した時代には、葬儀などでは、囲碁方が将棋方の世話役を勤め、将棋方が囲碁方の世話役を勤めることになっていました。
\x87A≫1。大橋宗與(勝田仙吉)は、天保八(1837)年の生まれではないでしょうか。

66: 名前:KOHITSU投稿日:2006/09/29(金) 11:22
>63 鹿島清吉は、木場の材木商鹿島清左衛門の長男で嘉永六年(1856)生れ、後に清左衛門の名を継ぎますが、店や居宅は深川区島田町7にありました。鹿島一族は清左衛門・清吉・清次郎(深川区島田町3)・清四郎(深川区数矢町15)などいずれも木場の材木問屋・材木商でした。愛棋家として宗印や五平の贔屓筋のこの一族は、明治期の将棋番付に別名(俳号)で掲載されています。
投稿内容についての問合せがあったので、少し補足をします。

鹿島清左衛門一族は、将棋や東都相撲会の関係では牛谷氏と記されています。傍証の一つを挙げると、慶應四戌辰『大日本将棋有名集』小林東四郎編には、牛谷露滴、牛谷清四郎、牛谷清次郎、牛谷清吉、牛谷清三郎などの名が記されており、牛谷露滴は当時の鹿島清左衛門です。そして、明治期の伊藤宗印編の番付では、牛谷露滴、牛谷春甫、牛谷藻鯉、牛谷晴朝、牛谷馬泉、牛谷牛政などと記されています。なお、牛谷駒との関連で「牛谷露滴等は関根金次郎の贔屓筋」などと書かれている方がいますが、時代が異なります。正しくは伊藤宗印や小野五平の贔屓筋です。

67: 名前:鹿島屋投稿日:2007/10/05(金) 09:27
鹿島一族と鹿島屋は、別物なんですよ
鹿島一族は、兵庫県伊丹の酒蔵を持ついわゆる酒問屋
今は、鹿島屋を名乗っていますが、本来皆さんの言う鹿島屋は、
徳島県小松島に本拠を持つ物で其処に勤める番頭衆は、鹿島屋と名乗っておりました
因みに井上家は、浄土宗ですよ
詳しくは、徳島県立文書館に古文書が保管されています

68: 名前:鹿島清夫投稿日:2008/01/22(火) 18:58
鹿島屋のルーツは、兵庫県高砂市(姫路市)牛谷でございます。従いまして鹿児島は、全く関係は、ございませんです。尚、当家の親戚には、牛谷姓を名乗っている方もございます。多分 将棋駒 製作された方も一族の誰かさんだと思うのですが…?と思います。

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4: 四宮金吾  全レス

01: 名前:管理人投稿日:2007/10/25(木) 02:30
スレッドを立てます。   

02: 名前:mtmt投稿日:2007/10/25(木) 02:36
大橋分家の墓スレより。

>34: 名前:門脇芳雄 投稿日:2001/05/08(火) 15:49

>四宮金吾(らしい人)の墓
>鳴門棋人氏(吉野鳴南氏と思われる)が旧パラの昭和26年新年号に書いています。
>四宮金吾は吉野氏の玄祖父(祖父の祖父)に当たると祖父から聞かされており、
>祖父の従妹に当たる老婆から四宮生前の伝聞なども調査発表されたもの。
>この玄祖父の墓は鳴門市撫養町斎田の西福寺にあり、明治9年に79歳で死んでおり、
>俗名天羽亀吉とある由。
>この天羽亀吉が四宮金吾らしいことは色々と考察が述べられており、正確に言うと
>吉野氏は西福寺で過去帳を見ただけで、墓石のことは述べていませんでした。

>この吉野氏は指将棋の強豪で建部九段とも知己だった人のようです。

徳島での女流王位戦第4局の後、今日は脇町の小野五平名人の墓所である安楽寺に
行き、明日は名高い渦潮を見ようと鳴門まで来ました。
四宮金吾のことは頭の片隅にありましたが、なんという偶然、私が泊まっている宿は
西福寺に至近のようです。

03: 名前:新井田投稿日:2007/11/08(木) 21:18
そういえば、鳥刺しなんかも1700年前後からあるようですね。

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5: 13世名人関根金次郎  レス数30でのページ 1 2 3 4  全レス

01: 名前:mtmt投稿日:2001/11/18(日) 03:06
一般には阪田三吉のライバルとして有名な人でしょうか。

110: 名前:mtmt投稿日:2005/10/10(月) 05:43

 ちょうど本所の相生町に、十一世名人伊藤宗印先生のお邸があった。臆面もなくわたしはその玄関に立って、先生に将棋をさして頂きたいと申出た。すると、すぐあがれということであった。
 とにかく、ぽっと出の田舎の小僧が、時の名人と将棋を指せるというのだから、天にも昇る気持で上にあがると、名人は五十ばかりの実に綺麗なお方で、わたしが子供だから可愛らしいと思われたのだろう。にこにこして、
「なんでさす――?」ときかれた。
 初段の力はあると信じながらも、そこは子供で、初段ならば名人とさすとき飛香落と相場が決まっているのに、わたしは、
「三枚落でやってください」と云った。
 飛、角、香の三枚をおとしてもらって、名人と対局した。
 ところが、その結果は、あっさり二番つづけて負かされ、三番目にやっと勝ったが、これは名人のお情(なさけ)で、花をもたせて下さったのであった。
 高々とのばしていた天狗の鼻は、無惨に折られてしまったのである。そして、この時、わたしは天の啓示のように気がついた。天下は広い、と。それから、田舎などでいい気になっていずに東京でみっちりと修行をしなければならぬ、と。
「いや、なかなか強い」
 伊藤先生にお愛想をいわれ、御飯を御馳走になったり、また将棋の日本番附まで頂戴したりしたが、わたしはお礼を述べ、
「いまに出世しましたら、御恩がえしをいたします」といって、名人の許(もと)を辞したのであった。

111: 名前:mtmt投稿日:2005/12/29(木) 08:50
問題:関根が入門した際、宗印は名人であったか?

112: 名前:まえはる投稿日:2005/12/30(金) 06:32
「棋道半世紀」の記述によると
上京したのが1879年、11歳になってから。
しかし宗印の名人襲位がこの年の10月なので
その前という可能性は十分考えられますね。

113: 名前:よたろう投稿日:2006/01/19(木) 09:37
毎日新聞朝刊に2月19日(だと思ったが)いちいのホールなどで名人戦祭りとして指導対局(事前申し込みによる抽選)、石田九段の大盤解説などのイベントがあるそうです。

114: 名前:makino投稿日:2006/01/19(木) 19:45
↓社告:来月15日に柏駅前移動支局を開設 千葉から元気発信(毎日新聞)
http://www.mainichi.co.jp/information/news/20060119ddlk12040233000c.html

【「名人戦イベント・将棋まつり」(日本将棋連盟関根金次郎支部後援)】将棋十三世名人の関根金次郎没後60周年を記念して、2月19日(日)午前10時半〜午後4時半、野田市の関根名人記念館で実施。ビデオ上映▽石田和雄九段の名勝負大盤解説・トーク▽石田九段と勝又清和五段、女流棋士の中倉宏美初段のプロ3棋士による多面指し指導(以下略)。

多面指し指導の希望者は抽選で40人を招待。締め切りは2月8日必着だそうです。

115: 名前:よたろう投稿日:2006/02/20(月) 14:41
昨日、野田市いちいのホールでの名人戦祭りに行ってまいりました。地元の関根金次郎支部、野田市のかたがたの熱意に敬意。石田九段による関根・阪田戦はこういう機会でもないと鑑賞したりしないので興味深い。

さて指導対局は勝○5段に厳しい稽古をつけてもらおうと席につくや「ええー XXさんですよねー。なんで千葉代表がここにいるの?」(千葉県在住だから千葉県のイベントにきてるんですが)とか 「(大勢、多面指し指導対局希望者があとにつかえてるのに)なぜXXさんとガチンコ勝負やっているのか?」とか厳しい口撃。 マニアでも強豪でもない一般アマなのに、初対面のはずの勝○さんにこう言われるとは。
「こいつは油断すると危ないから要注意すべし」とかいう指名手配がまわっているのでしょうか?そんなこんなで「藤井システムの研究よかったです」というのを忘れた。

116: 名前:招き猫投稿日:2006/03/26(日) 08:19
12にもかぶりますが.
引用は倉島竹二郎氏著「観戦記半世紀の思い出」s53将棋世界連載よりです.
関根金次郎13世名人の逸話です.
東京日々新聞(現毎日新聞)阿部真之助氏、黒崎貞治郎氏より実力制名人戦の
企画が持ち込まれます.当然関根名人の処遇が大問題となります.
最高顧問中島富治氏と相談の上、名人を正客としてとりあえず一席設けることとなりました.
その席で名人戦の件を持ち出します.そのときの模様です.

以下引用
阿部氏も黒崎氏も、関根名人がその場で色よい返事をするとは期待していず、
その日は打診のつもりだった.が、関根翁はみなまで云わせず、
「よくわかった.要はわしが引退すれば将棋界がよくなるということだろう.
よろしい、退きましょう.しかし、わしにも一応相談しなければならぬ人があり、
主だった棋士たちとも話し合わなければならないから、この場での即答はカンベンしてもらいたい」
と、至極淡々と応対した.
(略)
黒崎氏はその当時の関根名人のことを
「たった今、自分の地位が消滅するかも知れない話をし、将棋界200年の伝統をくつがえす重大問題を
語り合った人とは思えなかった.宴会のムードにひたりきっていた.その様子を見るにつけ、
不安にならずにはいられなかった.何度も大丈夫だろうかと自ら反問する始末だった」というふうに書いているが、
明治の大御代が生んだ巨匠ならではの瓢逸な関根翁の風姿が目に写るようで、私にはなつかしくてならない.
 それから数日して、関根名人から正式に引退を受諾する旨の回答があり、阿部氏も黒崎氏もやっと胸を撫ぜおろした.
関根翁は明治維新以来衰微の道を辿っていた将棋界を何とか盛り返そうと、諸国を遍歴して将棋の宣伝をはかり、
また土居市太郎青年その他の秀才の発掘に努めた人で、将棋界隆盛発展以外に他意はなかった.
だから、名人戦の構想にも自己の既得権を度外視して同意したので、大事な時機に関根翁のような頭領を持っていたことは
将棋界にとってまことに幸いであった.

117: 名前:招き猫投稿日:2006/03/26(日) 09:18
15に関連ですが
s48近代将棋に「近代将棋の父 関根金次郎物語」が倉島竹二郎氏の連載でのってました.
少年時代だけの話しではなかったので、該当するかどうかわかりませんが.

118: 名前:三遊亭とん楽投稿日:2006/05/03(水) 14:53
落語「関根金次郎伝」
恐縮ですが、宣伝です。
去年舞台でやった「名人・関根金次郎の生涯」を落語にして両国寄席の高座でやります。
5月14日(日)18時開演です。将棋関係のみなさんは「団体割引」適用にしてもらいますので、受付で申告してください。両国寄席は、京葉道路沿い本所警察隣です。
どうぞよろしく

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6: 玉と王はどちらが「正しい」のか?  レス数30でのページ 1 2 3  全レス

01: 名前:mtmt投稿日:2002/12/08(日) 08:07
四百年来の頻出テーマのようです。

79: 名前:VincentVega投稿日:2007/02/14(水) 10:10
宝物類で統一しているのだからルーツは玉将で間違いなし
と、今までは漠然と信じていたのですが、
小沼さんのブログ記事を読むと、駒の名前には複雑な
必然性が絡み合っていて単純な話ではないですね。
目からウロコです。

80: 名前:小沼 諒投稿日:2007/02/15(木) 20:57

VincentVegaさん、こんにちは。

 ブログをご覧いただき、ありがとうございました。

 「複雑な必然性が絡み合っていて単純な話ではないですね」

  もともと、「古代インドのチャトランガから将棋に至るまで
 一本道で改良過程を説明できるはず」という確信に近い気持ちを
 もって考察しましたが、結果として複雑な印象を得られる方は多いかもしれません。

  「シャンチー・チャンギの歴史」(http://asianchess.livedoor.biz/
 も「将棋の歴史」と密接に関連します。
  現在進行中ですが、よかったらご覧ください。

  小沼 諒
  http://blog.livedoor.jp/r_onuma/

81: 名前:小沼 諒投稿日:2007/02/16(金) 19:50
VincentVegaさん、こんにちは。

  さて、「シャンチー・チャンギの歴史」でのコメント※と昨日のコメントに
 矛盾があることに気が付きました。

  ※「とりわけ日本の将棋は複雑な改良過程を経ており、
   より深い洞察力を求められます。」

  「将棋の改良過程に複雑な側面はあるけれども、一本、筋は通っている」
 と修正させてください。
  よろしく、お願いします。

  小沼 諒
  http://blog.livedoor.jp/r_onuma/
  http://asianchess.livedoor.biz/

82: 名前:小沼 諒投稿日:2007/03/18(日) 18:18
こんにちは。

さて、3/24(土)から、「シャンチー・チャンギの歴史」
(http://asianchess.livedoor.biz/)において、
シャンチーの中期改良(城都建設)の考察に入ります。

 「彼」、盤上に「城都の構図」を描いた名も無き改良者は、
シャンチーのみならず、チャトランガ史上において、もっとも
劇的な改良を行った天才といっても過言ではありません。

 「城都の構図」の導入は、様々な点において、シャンチー
というゲームの方向性を決定付ける役割を果たしました。
 しかし、この導入には光と影がありました。

 光と影とは何か。どのようにシャンチーの方向性を決定付けたのか。
 主に創作心理という観点からスポットを当てたいと思います。
 よろしくお願いします。

 小沼 諒
 http://blog.livedoor.jp/r_onuma/

83: 名前:小沼 諒投稿日:2007/05/20(日) 10:11
こんにちは。

 さて、5/22(火)から、「シャンチー・チャンギの歴史」
(http://asianchess.livedoor.biz/)において、

シャンチーの中期改良(「砲パオ(炮)」の採用)
の考察に入ります。今まで、

 初期改良(碁を模したゲームへの改良)、
 中期改良(城都の建設、城都の構図採用)

という改良を考察しました。この二度に渡る改良によって、ほぼ、
ゲームの骨子は固まりました。
 そして、城都建設の仕上げが「砲パオ(炮)」の採用です。
 世界中に数多あるチャトランガの末裔においてはじめて、
空を飛ぶ概念を取り入れた駒といっても過言ではありません。

 城都建設と砲(炮)の採用とを別章立てにしましたが、
これら一連の改良は短期間に行われた可能性も高く、同一人物が
双方の改良を行った可能性もあります。

 引き続き、よろしくお願いします。

 小沼 諒

84: 名前:小沼 諒投稿日:2007/06/03(日) 10:59
 こんにちは。

 さて、6/9(土曜)から、「シャンチー・チャンギの歴史」
(http://asianchess.livedoor.biz/)において、シャンチーの中後期改良
(大規模改修)の考察に入ります。

 シャンチー改良において「城都の構図」採用に伴い、様々な改良が
施されたことを前述しました。
 駒の機能強化や制限ルール等々。
 これらによって生じた攻守の不均衡や歪を是正するために、
後(※)に複数の愛好者たちによって補われた改良もあります。

(※ 中には、砲(炮)の採用や敵味方の文字峻別より以前に
定められたルールもあるかもしれません)

 この章においては、そのような改良や、広象棋・北宋将棋など
シャンチーの改良過程において派生し、シャンチーの改良に影響を
及ぼした大象棋を取り上げます。
 よろしく、お願いします。

 小沼 諒

85: 名前:小沼 諒投稿日:2007/08/02(木) 21:48
 こんにちは。

 平成19年8月4日(土曜)から、「シャンチー・チャンギの歴史」
http://asianchess.livedoor.biz/)において、後編「チャンギの歴史」
についての考察を開始します。
(ちなみに、このブログは将棋・シャンチー・チャンギ、各々の成り立ち
において、相互に不可分の関係にあることを踏まえて、掲載しています)

 チャンギ(朝鮮将棋、janggi)。
 一見してシャンチーとの共通点も多く、シャンチーから派生した
「将棋」と評するのが一般的と思われます。

 しかし、チャンギの根底にある思想は、シャンチーと大きく異なります。
 チャンギが目指した世界は「自由奔放」。
 随所に、(制限ルールを基調とせざるを得なかった)シャンチーに対する
アンチテーゼが見られます。

 引き続き、よろしくお願いします。

 小沼 諒
 http://blog.livedoor.jp/r_onuma/

86: 名前:小沼 諒投稿日:2007/09/24(月) 12:18

こんにちは。

 将棋史を理解するうえで、シャンチー史・チャンギ史への理解も
かかせません。
 9月29(土)からは、「シャンチー・チャンギの歴史」
http://asianchess.livedoor.biz/)において、
「構図の拡大」というタイトルで新たな考察に入ります。

 シャンチー盤の中央には「河界」という名の大河が
流れています。しかし、チャンギにはありません。
 わざわざ、撤廃したのです。
 なぜ、撤廃したのか。その背景を考察します。

 引き続き、よろしくお願いします。

 小沼 諒
 http://blog.livedoor.jp/r_onuma/

87: 名前:小沼 諒投稿日:2007/11/11(日) 10:14

 こんにちは。

 ブログ「シャンチー・チャンギの歴史」http://asianchess.livedoor.biz/
について、一応、完結しました。
 一応というのは、「将棋史・チャンギ史・シャンチー史の骨子に
ついて、相互に整合性の取れた合理的な仮説を掲げる」というレベル
に到達できただけからです。いまだ、頂は遥か彼方です。

 充電して、何らかのきっかけや刺激を得て、新たな構想が沸いたら
、再開したいと思います。
 何時になるかわかりませんが、その機会が訪れることを自分自身に
期待したいと思います。
 ともあれ、ご愛読・コメント、ありがとうございました。

 小沼 諒
 http://blog.livedoor.jp/r_onuma/

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7: 古典板雑記帳  全レス

01: 名前:管理人投稿日:
独立させて板を作ってみました。

02: 名前:mtmt投稿日:2004/11/14(日) 15:46
↓年号/西暦変換(国立情報科学研究所)
http://www.nii.ac.jp/CAT-ILL/contents/tools_nengo.html

03: 名前:mtmt投稿日:2004/12/26(日) 12:29
↓GyouseiNet
http://homepage1.nifty.com/gyouseinet/index.html

↓歴史と暦
http://homepage1.nifty.com/gyouseinet/koyomi.htm

04: 名前:mtmt投稿日:2007/01/26(金) 22:22
↓Yahoo!地図情報 古地図で東京めぐり
http://map.yahoo.co.jp/kochizu/

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8: 花田長太郎九段  全レス

01: 名前:管理人投稿日:2003/09/01(月) 03:13

スレッドを立てます。

02: 名前:管理人投稿日:2003/09/01(月) 03:14
開始日時:1922/04/17
棋戦:東西大棋戦
掲載:大阪朝日新聞
先手:七段 花田長太郎
後手:八段 阪田三吉

▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △4四歩 ▲2五歩 △3三角
▲4八銀 △3二銀 ▲5六歩 △5四歩 ▲5八金右 △4三銀
▲3六歩 △6二銀 ▲6八玉 △5三銀 ▲7八玉 △7四歩
▲6八銀 △6四銀 ▲7七銀 △7二飛 ▲7九角 △3二金
▲2四歩 △同 歩 ▲同 角 △同 角 ▲同 飛 △2三歩
▲2六飛 △7五歩 ▲同 歩 △同 銀 ▲3五歩 △7六歩
▲8八銀 △6四角 ▲3七桂 △3五歩 ▲4六歩 △5二金
▲6八金直 △7三桂 ▲7四角 △8二飛 ▲5七銀 △3三桂
▲5五歩 △同 角 ▲5六角 △8五桂 ▲2四歩 △同 歩
▲同 飛 △2二歩 ▲2三歩 △同 歩 ▲同角成 △7七歩成
▲同 桂 △同桂成 ▲同 銀 △7六歩 ▲8八銀 △6五桂
▲5六馬 △7七歩成 ▲同 金 △同桂成 ▲同 銀 △2三歩
▲2六飛 △7二飛 ▲7三歩 △同 飛 ▲7四歩 △7一飛
▲5三歩 △6二金 ▲4七桂 △3六金 ▲2九飛 △4七金
▲同 馬 △3六歩 ▲3五桂 △3七歩成 ▲6五馬 △8五桂
▲6八銀左 △6四銀 ▲4三桂成 △同 金 ▲2三飛成 △7七桂成
▲6九玉 △6八成桂 ▲同 銀 △6五銀 ▲2一龍 △4一桂
▲3二金 △7七桂 ▲同 銀 △7八銀 ▲同 玉 △7七角成
▲同 玉 △7四飛 ▲6八玉

 まで111手で花田の勝ち

03: 名前:mtmt投稿日:2003/09/01(月) 03:37
開始日時:1937/03/22
終了日時:1937/03/28
場所:天龍寺
掲載:読売新聞
先手:八段 花田長太郎
後手:阪田三吉

▲7六歩 △1四歩 ▲2六歩 △5四歩 ▲2五歩 △3二金
▲2四歩 △同 歩 ▲同 飛 △5二飛 ▲2八飛 △2三歩
▲5六歩 △3四歩 ▲4八銀 △4四歩 ▲5七銀 △4二銀
▲6八銀上 △6二銀 ▲7八金 △5三銀右 ▲6九玉 △7四歩
▲4六歩 △4三銀 ▲3六歩 △7二金 ▲5八金 △6四歩
▲9六歩 △4二飛 ▲1六歩 △4一飛 ▲7九玉 △9四歩
▲3七桂 △6二玉 ▲2六飛 △3三角 ▲4七金 △7一玉
▲5五歩 △同 歩 ▲同 角 △5一角 ▲5六金 △3三桂
▲3五歩 △5四歩 ▲6六角 △3五歩 ▲4五歩 △同 歩
▲同 桂 △同 桂 ▲同 金 △4四歩 ▲3五金 △3四歩
▲3六金 △6三桂 ▲3五歩 △6五歩 ▲7七角 △8四歩
▲3四歩 △同 銀 ▲5五歩 △同 歩 ▲5四歩 △6四銀
▲2五金 △4五銀 ▲3五金 △5四銀 ▲3四金 △5六歩
▲同 銀 △5七歩 ▲5九歩 △5八歩成 ▲同 歩 △5五歩
▲4七銀 △6六歩 ▲同 歩 △3一飛 ▲3五歩 △6二角
▲2三金 △4三金 ▲2二金 △3五飛 ▲3六歩 △2五歩
▲2九飛 △3三飛 ▲1一金 △4五歩 ▲2五飛 △4六歩
▲2一飛成 △6一歩 ▲8六角 △7五桂 ▲2五桂 △3四飛
▲3八銀 △8五歩 ▲7七角 △8七桂成 ▲同 金 △3七歩
▲4九銀 △4七歩成 ▲8二歩 △同 玉 ▲6一龍 △7一金
▲5二龍 △5三金 ▲2二龍 △4二歩 ▲8四歩 △4四飛
▲3三龍 △7二玉 ▲6五香 △4三飛 ▲同 龍 △同 歩
▲6四香 △同 金 ▲3二飛 △2九飛 ▲8三桂 △4九飛成
▲8八玉 △6一金 ▲5二銀 △6三銀 ▲6一銀成 △同 玉
▲3三桂成 △5二銀打 ▲4二成桂 △8六香 ▲同 角 △同 歩
▲同 金 △4五角 ▲3一飛成 △7二玉 ▲5九香 △5八と
▲7一桂成 △同 角 ▲8三歩成 △6二玉 ▲5四歩 △4一桂
▲5三金 △同 銀 ▲4一龍 △7八角成 ▲同 玉 △6八と
▲8八玉

 まで169手で花田の勝ち

04: 名前:mtmt投稿日:2005/09/25(日) 23:03

天龍寺

(8月16日夕方、天龍寺)

05: 名前:mtmt投稿日:2005/09/25(日) 23:04

天龍寺

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9: 大橋本家の墓(伊勢原市・上行寺)  全レス

01: 名前:mtmt投稿日:2004/07/25(日) 23:28



↓冨士山上行寺
http://www8.ocn.ne.jp/~johgyo/

18: 名前:mtmt投稿日:2004/12/22(水) 14:46
昨日午後、神崎健二七段におつきあいいただいて、上行寺に
お参りしてきました。天気が悪かったのが少し残念。

19: 名前:mtmt投稿日:2004/12/22(水) 14:51



(神崎健二七段)

20: 名前:mtmt投稿日:2004/12/26(日) 12:06


21: 名前:mtmt投稿日:2004/12/26(日) 12:49
「将棋マガジン」1981年12月号、かとうひさやさん
「大橋本家 駒形の墓碑を弔う――伊勢原 上行寺ゆき――」
によると、五基の墓碑銘は右から順にそれぞれ以下の通りです。



(右端の墓碑)

正徳三癸巳八月二十二日
玉泉院宗銀日角居士(=六代宗銀)

宝暦三癸酉七月二十八日
善明院元修日随居士(=七代宗桂)

大龍院臨応日光居士(=十一代宗桂)
明治七戊年三月六日

光顕院春照日妙大姉(=十一代宗桂夫人)



裏には「銀」と刻まれています。

22: 名前:門脇芳雄投稿日:2006/10/15(日) 17:43
大橋家法名記録(天理図書館蔵本 795/649)
以下の記録は昭和8年5月14日に上行寺で作成されたものを昭和12年1月に青夢画人氏
(三宅青夢氏)が美しく丁寧な文字で借覧臨書されたものです。

玉龍院宗桂日将居士  三代 万治三年九月廿五日  宗桂 三十七才
法光院宗傳日等居士  四代 寛文二年五月廿五日  宗傳 二十五才
  右三代四代ハ上行寺在墓
善行院宗桂日金居士  五代 正徳三年五月六日   宗桂 七十八才
玉泉院宗銀日角居士  六代 正徳三年八月廿二日  宗銀 三十四才
善明院元修日随居士  七代 宝暦三年七月廿八日  宗桂 三十五才
角静院宗桂日普居士  八代 安永三年五月廿日   宗桂 六十一才
玉應院宗桂元奥日院居士九代 寛政十一年八月十四日 宗桂 六十一才
金翅院宗桂日昇居士  十代 文政元年六月廿八日  宗桂 四十四才
大龍院臨應日光居士 十一代 明治七年三月六日   宗桂 七十一才
真如院宗金日歓居士 十二代 明治四十三年十一月十七日宗金 七十二才
昌山院妙純日静大姉 十四代 昭和五年十一月廿八日 静子 十七才
(注:十三代は記入なく、ここで改頁。以下は門人とか家族で、当主は別格らしい)

妙桂日勝      元禄七年二月十八日
梅香院妙悦信女   享保三年四月四日
勇猛院了進信士   享保二年七月六日 門人
秋悦了幽童女    享保十七年七月廿九日
順性院妙啓日念信女 宝暦二年八月十二日
玉縁顕理童子    宝暦二年六月十九日
銀将院定治日上居士 明和元年十二月十六日
門法院妙解日了大姉 天明六年八月六日
春清院妙寿日命大姉 寛政六年一月二日
貞性院春夢童子   享和三年二月十一日
誠宥院妙孝嬰孫   文化五年十二月二日
圓理宗貞居士    文化二年三月二日 門人
體如春香童子    文化八年一月五日
道圓信士      文政十一年三月
珠光童子      文政十二年一月四日
秋善院妙恵日普法尼 文政十二年十月十二日 伯母
智善院法意童子   文政十三年三月十六日
顕了院妙桂日宗大姉 天保九年一月廿一日
觀振念歩信士    天保三年十二月廿一日
順教示道信士    嘉永四年十二月十七日
元寿止考信士    安政三年十一月廿四日
光顕院春照日妙大姉 慶応二年三月十七日  十一世宗桂妻俗名みつ
常清院妙寿日行大姉 明治十七年八月六日  十二世宗金生母十一世宗桂後妻寿□
真月院妙好日喜大姉 明治十七年十月廿五日 十二世宗金妻俗名喜代
秀月智還童子    明治十七年四月廿六日 十二世宗金次男俗名秀次郎
夏月妙栄信女    大正九年六月廿一日  十二世宗金二女大橋エイ
一心照空信士    大正四年十月三十日  エイ長男 星野照三
右五代ヨリ十二代迄及妙桂日勝ヨリ一心照空信士迄ノ各霊 昭和八年五月本法寺ヨリ上行寺へ改葬
其法名大橋家ヨリノ記録ニ依リ記載ス

これでみると大橋三代宗桂と四代宗傳の2名は最初から上行寺にあり、五代宗桂から十四代までと
家族や門人は本法寺に埋葬されていたものが、なぜか昭和八年に上行寺に改葬されたようです。
記録の最後に、この記録を上行寺に持参された「有賀みよ殿」の次の記載がある。

「十一世宗桂の妻 其以前のものは記録焼失の為 誰々の俗名 誰々の何といふことが詳かで御ざいません。
然し本法寺へ埋葬致しました人々はこれだけで全部でそれに間違はありません。
但し家名をついだ人々のことははっきり致して居ります」

この記録は大橋本家の法名や命日の研究には第一級の資料なのでなるべく元の本字を使い、忠実に記録しました。
但し享年はかなりあやしいのがあるのは不審です。
「印達〜宗銀五十七番指し」の宗銀が従来は二十才で歿とされてきたがこの記録では三十四才となっています。
従来「宝暦3年(1753)に66才で没」とされていた七代宗桂が享年35才では明らかに計算が合わない。
従来48才で没したとされた三代宗桂は、本記録では37才。
従来56才で歿とされた九代宗桂は、本記録では享年61才。
それぞれ
従来説が正しいのか、本記録が正しいのか、妙なことです。

23: 名前:KOHITSU投稿日:2006/10/22(日) 15:09
門脇芳雄様 ご投稿(22)を大変興味深く拝見しました。

ところで、法号帳の中に一つだけ気になるものがあります。「銀将院定治日上居士 明和元年十二月十六日」です。院号が授与されているので、単なる門人ではないと思います。跡目となって夭折した者の法号なのでしょうか。ご教示願えれば幸いです。
ご承知の通り、明和元年は西暦1764年に当たり、大橋本家では八代宗桂が八段に昇段した年、伊藤家では二代宗印の子供達や孫(得壽)が没した後の五代宗印(鳥飼忠七)の時代、大橋分家では四代宗與が没した年であったわけです。定治日上とは大橋○○と推測することができるのですが。

>22 但し享年はかなりあやしいのがあるのは不審です。「印達〜宗銀五十七番指し」の宗銀が従来は二十才で歿とされてきたがこの記録では三十四才となっています。従来「宝暦3年(1753)に66才で没」とされていた七代宗桂が享年35才では明らかに計算が合わない。従来48才で没したとされた三代宗桂は、本記録では37才。従来56才で歿とされた九代宗桂は、本記録では享年61才。それぞれ従来説が正しいのか、本記録が正しいのか、妙なことです。
大橋家の人々の享年を云々する資料を持ち合わせてはいないのですが、シロウトなりに少し私見を述べさせてもらいます。
\x87@三代宗桂は四十八歳歿が正しいと思います。赤沼氏覚書や藤波氏掃苔記録では四十八歳となっています。
もし、三宅氏の記録に従って三代宗桂の生年を十年下げると、四代宗傳は宗桂の十四歳のときの子供ということになり、この時代に全くありえないことではないにせよ、将棋宗家の跡目であり、また病弱・繊細といわれている人物にしては殆どありえない話だと思われます。
\x87A宗銀の享年について、赤沼覚書は二十歳、藤波氏は二十八歳(誤記か)としています。三宅氏記録の三十四歳もありうると思います。
宗銀を若く設定したのは、印達と宗銀の勝負を面白くするために両者をほぼ同年齢の若者に仮構した結果かも知れませんが…。
\x87B七代宗桂の享年が三十五歳では、その生年は文政初期となり、六代宗銀(1713年歿)や八代宗桂(伊藤宗壽。1715年生)の生没年と比較しても明らかに計算が合いません。
従来の説が正しく、三宅氏の記録は記載誤り(上行寺法号帳の復元過程の誤記かも知れない)とみる方が適切と思われます。
\x87C九代宗桂の享年について、赤沼覚書に記述がなく、藤波氏は五十六歳としています。将棋に関心のない藤波氏が棋界の通説に従った可能性は乏しく、東京市の文化財記録に拠った可能性はあります。もし寺の法号帳に従ったとすれば三宅氏との相違が解せません。他の点からも五十六歳説の方が妥当と思われます。

いずれにせよ、「昭和八年五月本法寺ヨリ上行寺へ改葬其法名大橋家ヨリノ記録ニ依リ記載ス」が真実や否や、このことは重要だと思います。

24: 名前:KOHITSU投稿日:2006/10/28(土) 14:00
伊藤家の墓(東京・本法寺)≫87,90 にも関連しますが、『柳營日次記』寛文七年十二月二十三日(1667)「今度屋敷拝領之面々」は、「狩野采女。狩野右近。狩野内記。狩野大學。狩野隼人。三知。本因坊。門入。宗閑。宗與。」の名前のある有名な条です。京都から江戸に召し出された人々が、屋敷を拝領し、江戸で本格的活動を始めたのは、この頃からです。【三知は宛字で、翌寛文八年に官賜碁所に就任した安井算知1617〜1703。本因坊は道悦1636〜1727。門入は林門入1640〜1685。宗閑も宛字で、伊藤家初代の宗看1618〜1694。宗與は大橋家三代宗與1648〜1728】
寛文十一年辛亥十月吉日『寛文年中江戸武家名尽時の逸物ハヤリモノ』は、「つれづれ成まゝに、日暮、硯にむかひ、うきよにはやりゆくよしなし事を、そこはかとなく書付れば、あやしうこそ物のをかしけれ」で始まる戯文ですが、その中に「其外は 御坊主や 上野坊 野間三竹 本阿弥や 狩野法印 本因坊 三知に 将棋持なるは 宗慶よ 心入角やと ほめん人もなし」という一節があります。狩野、本因坊、算知、宗桂らは当時の江戸に於いて大評判であったのです。

さて、冨士山上行寺は、『御府内寺社備考』に、慶長元(1596)年江戸府内の桜田寺地を拝領し、元和元(1615)年に八丁堀、寛永十二(1635)年に高輪伊皿子へ替地となり、さらに寛文八(1668)年の火災により二本榎へ移転したと記されています。
ところで、『武江年表』万治三年(1660)庚子の段にある「九月二十五日御将棊所二世大橋宗桂卒。二本榎上行寺に将棊駒形の石碑を立」という記述がよく引用されますが、史料としての信頼度は記録の性質や書かれた時期からみて『御府内備考』の方が高いと考えるべきです。従って、上行寺が寛文八(1668)年以降に二本榎へ移転したものならば、三代宗桂の歿したときに上行寺は高輪伊皿子寺町(泉岳寺の北)にあり、焼失後に二本榎丁の南はずれ(泉岳寺の南)に移転したのですから、『武江年表』の「二本榎上行寺」という記述は、上行寺の所在地の変遷を知らなかった齋藤月岑の誤記ということになります。尤も、月岑が「大橋家三代(宗桂としては二代目)の将棋駒形の墓が、今は二本榎にある上行寺に立った」という意味で記したのであれば不正確ではあっても全くの間違いとはいえませんが…。

『御府内寺社備考』の記述からすると、将棊駒形の石碑が立ったのは萬治三年(九月末から年末までの間)か翌寛文元年か詳らかではありませんが、宗桂の墓は上行寺とともに高輪伊皿子寺町から二本榎に移転した(火災で破損して墓石を修復・再建したかは不明)と考えるべきでしょう。もし(殆どありえないことですが)、二本榎に移転した上行寺になって初めて宗桂の墓石が立ったのだとしたら、墓は寛文八年以降に造られたとせざるをえないでしょう。
因みに、冨士山上行寺について、明暦三(1657)年『萬治年間江戸測量圖(通称明暦実測図)』では高輪伊皿子に寺名は見えず、二本榎の該当地の辺りには他寺「廣學院」が存在し東側が町屋と記されているとのことです。延寶版『江戸方角安見圖鑑』には「浄行寺」と記載され、東側と南側が町屋と記されていますが、寺名の「浄」は「上」の誤記に他なりません。

大橋家が菩提寺に上行寺を選んだ理由を明かす資史料はまだ見出されませんが、案ずるに、京都から江戸に本拠を移して、拝領屋敷が高輪伊皿子にある上行寺と目と鼻の距離にあるということも理由の一つかも知れません。
『町方書上』(文政十一年1828)中には、元禄十五(1703)年二月に町名の由来となる二本の榎が焼き枯れる程の大火災が上行寺の門前町屋にあったという記載があり、上行寺も罹災したと推定されます。火災による寺の移転や再度の火災も大橋本家や伊藤家が三代宗桂以後の墓所としなかった所以かも知れません。
なお、上行寺跡地の史跡調査報告書に拠れば、上行寺本堂など建物群の礎石群は古い墓石を転用しているものが多く、それらは碑銘を判読できないように表面を潰したり削ったりしてあったとのことです。

25: 名前:KOHITSU投稿日:2007/01/10(水) 10:15
管理人mtmt様
二本榎にあった当時の大橋家墳墓(本所本法寺から移転されたものを含む)の写真。将棋文化史書等であまり紹介されていないようでしたら、提供します。

26: 名前:mtmt投稿日:2007/01/10(水) 22:37
よろしくお願いします。
将棋の雑誌では、たしか建部和歌夫九段の連載に写真が出ていたと思います。
水はけがわるいところだったとか。

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10: 関澄伯理七段  全レス

01: 名前:mtmt投稿日:2005/10/17(月) 01:23
スレッドを立てます。

02: 名前:mtmt投稿日:2005/10/17(月) 01:49
「常陸国行方郡の酒造家に生まれ」と読んで、現代に生きるある棋士が
連想されました。

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