リレーエッセーその13

師匠

畑中謙吾


プロローグ

 将棋を覚え上達していく過程(あるいは、今現在でも)において影響を受けた人物というのは、誰でも、少なくとも1人はいるのではないだろうか。時には「先生」であったり、「ライバル」であったり、あるいはプロのスター棋士かもしれない。私にも、将棋の存在を知らせてくれた叔父をはじめ、「先生」や「ライバル」、「目標」等が、将棋を覚えた時期から今に至るまで何十人も存在している。勿論、ある特定の一時期だけの人もいれば、現在まで一貫してその立場にいる人物もいる。受けた影響の大きさもさまざまである。その中で、一番影響を受けた人物といえば、この人を置いていない。我が「師匠」は、反面も含め、私の将棋の技術や将棋に対する姿勢等の土台作成にあたって大きな足跡を残している。


出会い

 1989年、山形大学に入学した私は、生れてはじめて自由に大会に出られる立場となり、その生活を満喫し始めた。小学3年で将棋を初め、当初は月2回ほど札幌の将棋センターに通っていたのだが、その後岩手県久慈市(小6)、中学高校は山形県小国町と僻地に引っ込んでしまったため、大会はおろか、将棋を指す相手にも事欠くことになってしまった。月1度郵送される将棋世界と、釧路の叔父のところに遊びに行ったときに叔父の家の裏にある釧路支部で指すことくらいが子供時代の将棋のすべてであった。山形市に引っ越してから、まずやったことは将棋道場探し。山形支部道場を見つけ、支部会員分込みの年会費5000円で道場席料無料ということに大喜び。早速、アパート→大学→道場→アパート→……という生活パターンを確立させた。ここで、この行動パターンが三角形から直線運動にならなかったことが良かったのか悪かったのか…。時間を戻すことが出来るのなら、それを体験してみたかった気も多少はする。

 その年の5月、アマ竜王戦山形支部予選。予選1局目の相手は……あ、名前を見たことがあるぞ! 山形では結構代表になっている強い人だ(昭和50年代は東北無敵だったと師匠は自ら自慢げに語っておられました。県代表多数。元東北名人)。……どんな将棋だったかは残念ながら覚えていないのだが、かるく吹っ飛ばされたことだけは鮮明に記憶に残っている。大会終了後、「一番教えてください」と頭を下げたところ、快く?教えて頂く事が出来た。今から思うと、よく師匠は大会でもない、しかも無料(ただ)の将棋を指してくれたな、と感動すらおぼえる次第。まあ、でもそこは師匠、延々捕まったら大変とばかり、矢倉から一方的に潰されて、「いや、強い!!!」で、終了。だまされていた、と気が付くのはもう少し後になってからで、当時はただただ嬉しかった馬鹿な私であった。そのときは、それでおしまい。当時の実力は将棋倶楽部24(以下、「24」)で言えば1000点位。歯牙にもかけられなかったのは当然であった。


修業

 大学3年になると棋力は1800〜1900点位(24)となった。この頃には、師匠に顔と名前を覚えてもらえるようになった。そのうち、夕方5時あたりに師匠から電話でちょくちょく呼び出されるようになった。ところで、私は学生将棋には縁が薄かった。その頃の山大将棋部員は、一般大会や支部道場にはほとんど現れず、そちらのほうを主にしていた私とは接点がなかった。大学入学したての頃将棋部部室を覗いたこともあったのだが、たまたま誰も居らず、それっきりになってしまった。そのため私が東北学生将棋界にデビューしたのは2年の時からである。また、

(1)山形大学はいわゆる「タコ足大学」であり、将棋部員が山形県内散り散りになってしまうケースが多く、部内の結束がゆるかった。
(2)当時の将棋部員には師匠に匹敵する位将棋に情熱を燃やしている人物が残念ながらいなかった。
(3)そのような雰囲気を変えていこう、といったような、リレーエッセイ前任者のようなリーダーシップが残念ながら当時の私には欠けていた。

等の理由も学生将棋から私を遠ざけていた。大学将棋部で指すより道場や師匠の店で指す方が楽しかったのである。今から思うと、かなりもったいないことをしたと少々後悔しているのだが……。

 余談になるが、山形、関東、北海道と将棋大会に参加してきたが、一般大会への学生の出場が意外に少ないように思う。大学生に限っても各大学に団体レギュラーは7名はいるのであるから、そのメンバーが全員出場するだけで一般大会の参加者は軽く5割は増えるであろうと、少なくとも私の参加した地方の大会では言える。確かに一般大会は時間の短い将棋や切れ負けも多く、また、団体戦のように「熱く燃える」思いを経験することもそう多くはないかもしれない。が、現状は、学生は学生の中だけでかたまっているような印象を受け、少々寂しく思っている。

 当時、焼き鳥屋(その名も「焼き鳥名人」!)を営んでおられた師匠は、店に仲間を呼んでは真剣を楽しんでおられたようであった。呼び出されて私が店に行くと、既に先客と指しておられるということも多かった。一昔前の地方で「強豪」と呼ばれる人のほとんどは真剣で鍛えられたのではないかと思うのだが、師匠も「ただ(無料)の将棋なんか意味がない」派の筆頭のような方であった。ただでも楽しく真剣に指せる将棋に、わざわざお金かけて……というのが偽らざる感想だが、負けの悔しさをさらに増加させる「金を取られる痛み」を経験することにより、多少なりとも将棋に「鍛えが入った」ようである。当時のひ弱な定跡オンリー将棋を徹底的にぶち壊し、現在の基礎を作ってくれたのは師匠との真剣に拠るところが多い。真剣といってもそんなに無茶な金額では(私の見ている限りでは)指しておらず、店では1局1000円位が多かったようである。弱い学生の私は特別に100円で教えてもらっていた。それでもずいぶん授業料は払ったと記憶している(その分、師匠直々に焼いた焼き鳥を、焼いたそばから食べさせてもらったりもしましたが)。

 師匠は、指すときには決まって「切れ負け」であった。10分がほとんどで、ごくごく稀に15分。10分以下の将棋は私の方が拒否していた。焼き鳥を買いに来る客の応対しながらの将棋なので、30秒付きはなじまないということもあったし、「リーグ戦」(後述)で30秒付きでは、勝負がつくまで延々待たされる可能性があり、それを嫌ったためとも思われる。師匠と一緒に指した将棋で秒読み付きの将棋は県大会でしか経験したことがない。
師匠の切れ負けは当時山形では絶品であった。10分で相手になったのは山形県内ではおそらく寒河江の西澤玄章氏(故人)くらいだったであろう。店に来る客の応対をしながら時計を止めずに指す師匠。私はおろか、大部分の「先客」はそれでも吹っ飛ばされていた。

 店で指すだけではなく、遠征にもよく連れていかれた。8時前後に店を閉め、それから出発するのである。一番よくお邪魔したのは寒河江のお寺(故西澤氏宅)。ここに行くときには師匠、私のほかに後1名を誘い、人数を4名に調整することが常であった。そして行われる10分切れの「4名リーグ戦」(会費は1回1〜2000円位。2回戦は勝ち負けで対局。1位8割、2位2割くらいの取り分。同率は分けるとき、決戦するときどちらもあり、その都度決める)。師匠と西澤氏とは会費とは別に差しもしていたようである。西澤氏は朝が早いため、日付が変わる前にはおいとま(追い出される?)していた。

 宮城県の白石(当時)の加部康晴氏宅では、徹夜のデスマッチが常であった。さすがに加部氏は強く、私が同行した限りでは1度ももうけて帰ったことはなかった。そういえば、こんなこともあった。初戦で加部氏に勝った師匠、次に私と当たり、師匠が勝てば2連勝でほぼ優勝は決まりなのに番狂わせ。3戦目終わって師匠と加部氏が同率になり、決戦の結果加部氏の優勝。帰り道、「ああいうときは、負けるもんだ!」と説教?されましたっけ。でも師匠、勉強に来ている弱い学生に負けるほうが悪いのでは?と、多分これを見ていないのをいいことに、当時言えなかった科白を書いておこう。そうそう、加部氏からはいろいろためになるお話を伺ったが、その中でも最も印象に残っている言葉を紹介したい。

 「よく、大会などで僕(加部氏)の棋譜を学生達が取って、後でああでもないこうでもないと検討しているようだけど、あんなのあまり意味がないんだよ。実際に対局して、そこで、『どうしてあそこで、あの手が指せなかったのか、それは何故なのか?』ということを真剣に考えることに意味があるんだ」。

 そう言えば当時の加部氏は、どうして学生が家に指しに来ないのか、といったニュアンスのことを言って嘆いて?おられた。まあ、面識も無いのにいきなりお邪魔するなどそうそう出来る事ではないが。私も師匠と一緒でなかったら加部氏とは一生教えてもらう機会が無かった可能性大である。
加部氏は現在、仙台市で道場を開席。今後の東北学生将棋界がどうなっていくのか、活躍に注目している。


交遊

 師匠は良く言えば天真爛漫、悪く言えば子供っぽい方であった。私の名前を呼ぶときには決まって「はたけなかくん!」(本名は『はたなか』です、念のため)。店に顔を出すと第一声は8割方、「はたけなかくん、いっしょに将棋やめよう!」。まじめにとって、いちいち反論する当時の私が面白かったのであろう。試験などでしばらく店に顔を出さないでいると、決まって「はたけなかくん、蕎麦あるよ」だの、「焼き鳥あるよ」だのと食べ物で釣ってきたこともあった。そうそう、焼き鳥といえば、師匠の焼き鳥を食べた妻が「師匠が将棋が強いのが分かるわ……」と一言言った以後、師匠から頂いた焼き鳥は全て私の胃袋に納まることになったもの懐かしい思い出である。県名人に返り咲いた師匠との帰り道、上機嫌の師匠はポイと車窓から空き缶を投げ捨てた。「県名人ともあろうお方が、そんなことをするんですか」。反射的に口に出た私の言葉になんだかんだと言い訳していた師匠であったが、次の日、同じ場所に空き缶を拾いに行ったのにはちょっと感動した。が、実際に車から降りて缶を拾ったのは弟子の方ではありましたが。

 店での師匠ははずいぶんにぎやかだった。優勢になると、「はたけなかくん、タオルか〜?」とか「まったく、困った人だよ、はたけなかくんは。おやおや、暴れてきたぞ〜、ガッハッハ」などと上機嫌。はては、「かたいよかたい、さわってごらん」、のおやじギャグが出てきたり、「そばにい〜てく〜れるう〜♪だ〜けでいい〜♪(フランク永井)」などと歌いだす始末。逆に不利なときには貝のように黙って指しておられた。正直というかわかり易いというか…。先客と「勝負」しているところにお邪魔したときには、まず、盤面を見る前に師匠の様子を伺い、それで予想した局面の優劣と実際とを比べるのも密かな楽しみのひとつであった。師匠はタバコは嗜まなかった。かわりに、毎日毎日焼き鳥を焼く煙を吸ってるから、頭が悪くなって将棋が弱くなった、と耳にタコが出来るほど聞かされた。酒に酔っ払っている所も見たことが無い。温泉旅館で1泊2日で行われる山形の県大会の夜は、酒盛りの輪を尻目に、決まって「リーグ戦」であった。そうそう、ただで教えてくれそうな土岐田勝弘氏のお部屋に夜8時にお邪魔した時こともあったけど、へやは真っ暗。土岐田氏、秘蔵弟子の高橋賢君(当時高校生。朝日アマで沖氏を破ってベスト8に入ったことあり)と布団を並べて休まれていたっけな(当然、次の日土岐田氏は3、4位決定戦を快勝することとなった)。将棋を指すだけではなく、時折、蔵王の温泉にもつかりに行った。無料で入れる温泉(公衆浴場)があり、夜中に師匠と二人、湯船にゆったり…とはいかず、師匠は弟子に無理矢理民謡を教え?込んでは楽しんでおられた。

 そんな師匠との交遊は、卒業研究のみを残すだけとなった大学四年の時が最盛期であった。三角形のひとつの頂点は道場から店へと移行していった。しかし、大学院に進学するとそうそう時間が余るはずは無く、店にお邪魔することも少なくなっていった。また、このころ移転となった師匠の店が前より手狭で、店では将棋が指せなくなってしまったこともその一因となった。「焼き鳥名人」から足が遠のくと共に棋力も徐々に下降線を辿り始めることとなった。それでも月に1〜2度は師匠と共に武者修行(師匠は集金?)に行っていたように記憶している。


別れ、そして再会

 1995年、私は東京に就職することになった。師匠も弟子も筆不精のため、年1回の年賀状のみの付き合いとなってしまった。そのうち、風の便りで師匠が静岡に引っ越したことを知った。アマレン等を注意して見ていると、静岡の大会結果に師匠の名前を発見することが度重なるようになった。1999年、平成最強戦東京大会。
 「あれ、加部さんがいる!……あ、師匠だ!!!」
できればこの大会で師匠と指したい。それまでは何とか残っていたい。師匠は普段は切れ負けばかり指しているのに、「俺は本当は時間の長い将棋の方が強いんだ、1時間とか、3時間とか、それで勝ったら本物だ」などと言っていた。店でたまに勝ち越すと決まってその台詞だったので、時間の長い県大会で師匠と当たった時にはこちらも相当燃えていたことを懐かしく思い出す。久しぶりの師匠の将棋はどんなだろう!
その思いが通じたのか、奇跡的に予選、本戦1回戦を突破することが出来た。師匠はどうなった!?師匠の予選1回戦は石井豊氏とであった。
 「どうでした?」
 「時計が見えなくてよ、(以下略)」
 ……こりゃ次もだめだろうな。2局目の師匠の相手も強豪(どなたかは失念。長岡氏だったような……)であった。数年ぶりに会った師匠は、なんだかちょっと小さく見え、こみ上げてくるものを押さえるのに必死であった。

 話はこれでは終わらない。その後、師匠は家に泊まりに来たのである。大会会場で「どこかで、真剣できるとこないか?」と尋ねて新井田基信氏を大爆笑させた師匠は、氏より情報を入手、単身御徒町に乗り込むこととなった。途中まで師匠と同じ電車に乗っていった。
 「どうぞ家に泊まりに来てくださいよ。妻子は帰省中ですし。駅で電話くれれば5分で迎えに行きますよ」。
 「まあ、いかないとは思うが、はたけなかくん、(以下略)」
 どうせ電話来るのだろうな、と思いながら次の日の勝負(優勝した林隆弘氏と当たっていた)のことを考えていたら、案の定、11時過ぎに迎え頼むの電話が。急いで駅まで行ってみると、師匠の隣に、なんと、立石勝己氏がいらっしゃるではありませんか!真剣を続けるのに、適当な場所に選ばれてしまったのですね。いや、そこまでは読めなかった。立石氏とはそれまで2〜3局しか対戦したことがなかったので、よっぽど教わろうかと思ったのだが、いかんせん、人数は奇数。待つ時間がもったいないし、次の日のことを考え、私は早めに休ませてもらった。ここで、立石氏、師匠を撃沈し、次の日は優勝!となれば漫画の主人公になれるのであるが、そういうキャラクターではないことは重々承知している。逆に身包み剥がれて次の日は遅刻不戦敗が関の山だったろう。翌朝、6時に起きてみると、立石氏は帰られた後であった。師匠が布団にくるまって寝ておりました。盤面には最後の勝負の終了図がほぼ原型のまま残っていた。ううむ、この調子ではずいぶんやられたんだろうな。勝っているなら、師匠からやめるはずないもんな。弟子も才能の違いを見せつけられて、完敗であった。


エピローグ

 その後、師匠とは2000年4月の支部名人東日本大会でお会いした後は年賀状を一度出して返事がきたきりである。私には学生将棋の姿勢や雰囲気がぴったりであったと思う。本来なら学生将棋が私の将棋の原点になっていたはずであった。しかし、運命(というほど大袈裟なものではないが)の悪戯か、「学生将棋出身」とはならず、私は「地方真剣派」として育てられてきた。将棋に対する考え方や姿勢・言動など、師匠と私とでは相容れない部分が多い。しかし、何故か師匠とはよく将棋を指し、また、いろいろとお世話になった。私の先にも後にも師匠が私のような弟子をもったという話は聞かない。少なくとも私の知る限りではいない。本来ならすれ違っていた、あるいは反目しあっていたかもしれない師匠と私を繋いでいたものは何か。師匠、私という人間を通して現れる行動や表現等は異なっていても、その根底にある「将棋への情熱」が師匠と私との奇妙な交遊を形成したのではないかと思っている。インターネット等が発達してきた現代、師匠が歩み、そして私がほんのさわりを歩ませてもらった道を通る者はどんどん少なくなっていくであろう。もしかしたら、「地方真剣派」はそのうち絶滅してしまうのではないかとも思っている。得がたい体験を出来たことを心から師匠に感謝している。師匠を通して得られたものをそっくりそのまま全てという訳にはいかないが、その中の良いものを抽出して後ろに続いて来る者達にすこしでも伝えていくことが出来たらと思う。

 師匠の自慢話のひとつに、「俺が西澤(玄章氏)をアマ名人にしてやったんだ!」というのがあった。なんでも、アマ名人獲得直後の談話で西澤氏がそう言っていたとの事。師匠の話なので事実かどうかは怪しいが、お寺での真剣勝負がその原動力の一つとなったことは間違いないと思う。

 私と指したことがある方には大笑いされてしまうことを覚悟で、最後に一言書いておこう。私も野山知敬氏のように努力・精進して(第55回アマ名人戦自戦記参照)、死ぬまでには是非とも全国タイトルを取りたい。そして、その時には西澤氏が述べたという言葉をそのまま借用したいと思っている。

 「全国的には無名ですが、高沢則夫さんという方がいらっしゃり、その方のおかげでタイトルを取ることが出来ました」と。


【自己紹介】

 このリレーエッセイは、誰が登場してどのようなことを書くのか、といつも楽しみに読んでいました。まさか自分にお鉢が回ってくるとは考えもしていませんでした。まあ、強豪の方ばかりではなく私が書くことにも少しは意味があるかな、と思い、引き受けました。棋力は「県代表予備軍」といったところなので、知らない方が多い(特に中部地方より西側の方は)のではないかと思いますので、簡単に自己紹介します。
 生まれは北海道(小樽)。本文にもあるとおり、将棋を覚えたのは小学3年のときですが、本格的に大会に出るようになったのは大学時代から。1995年春、就職で千葉の流山に移り住み、2000年夏札幌に転勤になり現在に至っています。東支部名人戦(1992)、R選手権(2000、2001)で全国大会を経験しています。24では2200前後をうろついております。こう言うよりも、「畑中さゆりの夫」といった方が、もしかしたら早いかもしれないことをちょっと悔しく思っております(笑)。


 
(次回は平野琢也さんにバトンタッチ)