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リレーエッセーその26 いろんな人とのいろんなエピソード 早咲誠和 |
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将棋に勝つこと。それも、アマチュアとして勝つことが何を意味するのか、まだ自分にもわからない。でも年齢、性別、地域等全く関係なく楽しめるゲーム、この将棋と早くに出会えたことを、今でも幸運におもうのです。 将棋を強くなるためにはやはりライバルが必要だ。将棋をおぼえたての中学生のときは隣の家の子、近所のおじさん、同じ中学校の上級生、地元で強いと聞いた人に、どんどん挑戦していった。ここで同じ地域の友達を発見。自分より3歳年上で少し将棋も強い渡辺淳志くん(大分)。現在は将棋倶楽部24で毎日のように深夜登場しては対局している。でも将棋大会には興味がない不思議な人。僕の目標で良きライバル。結婚は僕が先だったのに彼は結婚したと同時にすぐ家を建ててしまった。彼とは死ぬまでいろんな意味で競うことになりそうだ。 そしてこの年(昭和61年)、大分県豆棋士将棋大会・中学生の部の予選1回戦で戦った相手が宗岡博之くん(大分)。彼とも16年来の友となってしまいました。幸か不幸か分かりませんが、お互いに刺激を受けている。昨年から宇佐地区名人を2年連続獲得し、今年こそは県名人戦挑戦者になると意気盛ん。彼は14歳にして大分市で詰め将棋の会合を開催し、自らは九州大学在学中に看寿賞作家となるなど、社交的な性格にして、鋭い感性の持ち主。彼も将棋倶楽部24で、しょっちゅうみかけます。 (誰も知らない謎の強豪) さて、中学2年生、13歳の時、初めて全国大会に出たいとおもって母親の兄の知り合いという人が我が家にきて対局してくれた。そうはいっても大分県中学生名人だよ、僕は……とおもったのも束の間。10連敗という後にも先にもない負け方をしてしまったその相手は、水内通暢さん(大分)。風貌は小池重明さんそっくり。おっきな体で分厚い手。健啖家でもあり、温厚そうな顔をしていても将棋にははっきりと意思があらわれる指し手。今になってわかるのですが、水内さんは昭和49年の全日本アマ名人戦で3位。その年のみアマ名人戦に参加して、それ以降表の舞台では将棋を全く指していない人。一度だけ私が無理をいって出て頂いた九州各県対抗の団体戦に、大分県大将として出陣。見事4勝1敗の成績を残した強い人です。その時の才田信之さん(佐賀)の一言。「あの人誰? 無茶苦茶強いなあ」。確かに、あの時の福岡県のタイトルを総なめしていた秋山運朝くんや赤木文造さん等を、手合い違いに吹っ飛ばしたのをみると、そうおもうでしょうね。僕と西谷明雄くん(福岡)が18歳の時九州大会の代表によくなっていたわけですが、二人で水内さんに挑戦したことがありました。結果はお互いに1勝1敗。しかも早咲・西谷ともに1局目を負けていたわけですからお互いに自信喪失とともに、いい勉強になったと喜んだものでした。西谷くんはその直後に立石勝己さんと戦った全国大会で水内−早咲戦と全く同型を戦い、完勝したため大変参考になったようです。 ちょうど将棋をやめようかどうか迷っていたとき、その年(平成2年7月)、川中清県名人に挑戦でき(大分県は約500名の中から挑戦者を決めて名人との3番勝負を料亭で行うまで半年ほどかかる大きなイベントなのです)県名人を獲得。これで将棋を少し続けてみようという気になりました。挑戦がきまって3番勝負が始まるまでに水内さんに5番ほど教わる。このとき私は16歳。前回は10連敗でしたが今回は2勝3敗。水内さん曰く、「まあ、俺にはまだはいらんけど川中にはこれで勝てるな」。確かにまだ水内さんにははっきり届かないとおもっていましたし、勝った2番についてもゆるめて自信を付けさせてくれたのではないかと、そんなことも感じた指導だったのです。2年程前に水内さんと将棋クラブであったとき、誰かが挑戦しようとしていましたが、「にいちゃんいいんかえ、いっとくけどワシはまだまだ強いでー」。確かに六十過ぎには見えませんが、今でも大分県で私の外に名前を挙げるとすれば、水内という名前しか思い浮かばないのです。 我が儘を聞いてくれた母親と一緒に東京で行われた全国中学生名人戦に出場したときのこと。結局途中で負けてしまいましたが、それよりも強く印象に残っているのは、東京の将棋連盟道場での対局。三段で登録して8連勝だか9連勝だかして、次の昇段の一番を迎えたときに、小さな生意気な子供がきてすかさず香車を引いたのです。ここの道場で五段とのことでしたが、それは田村康介現プロ五段。あのときの屈辱は忘れられません。私が将棋を指し続ける理由として田村さんに勝つため、といってもいいのかもしれません。まあ、お互いに目指す道が違って、アマプロ戦で当たる以外はありませんが。 それから半年後、初めて県大会で優勝して宗像王位戦九州大会の代表になりました。昭和63年5月に行われた本大会では高田治彦さんにはっきりと余されて負け。しかし同行した安藤耕平さん(大分)が大会にいく待ち合わせの大分駅で、いわれた一言。「あれ?早咲くん大きなカバンはないの?」「え?どうしてですか?」「だって優勝カップが入らないでしょ」。愕然としました。この時点で安藤さんの優勝は決まっていたのかもしれません。この時の経験を生かして私も宗像王位戦3連覇を成し遂げたときは、全て自分の車で会場までいったものです。 14歳のある日、地元の人からいきなり電話があり会わせたい人がいるということ。わからないながらも別府に連れていかれて会った人が今の師匠ともいうべき坂元輝行さん(大分)。初めてあってすごいカルチャーショックを受けてそれ以来将棋の人生の師匠といっている人です。今でこそ将棋はしないものの、19歳くらいの時には別府に坂元という大型新人登場と騒がれ、当時の全国を代表する棋士、在木馨さん(大分)との3番勝負も戦った人です。その時すでに45年前。その時に今でいう早咲玉や右四間飛車からの箱入り娘など多彩な戦法を考案していました。発想や感覚は時代を超えていて私が知っているアマの中で感覚が飛び抜けているのは師匠と鈴木英春さん(石川県)だけだといえます。 この師匠については語るべきところが山ほどありますが、とにかく2回目のアマ名人をとるまでは一度も誉められたことがありませんでした。大分県名人をとろうが九州大会で優勝しようがアマ名人をとろうが一度も誉めてもらえませんでした。ただ一言、「大変になるな。でもまだアマ名人をとったことでやっとスタートラインにたったな。これからの頑張りしだいでおまえはどうにでもなる」ということでした。残念ながらアマ名人をとって3年間将棋から離れていた私でしたが,将棋のことは頭の片隅にはありました。しかし、2回目のアマ名人をとったときに初めていわれた言葉で「ふつうの奴は俺の話を聞いている、いや聞くふりをして誰も聞いていない。でもおまえだけは違った。全て聞いた上で質問してきて俺のおもった以上のことをやってしまうんだ」。この言葉を聞いた瞬間涙が止まらなくなりました。 その師匠の家には長崎は佐世保から川原一門が遊びにきていました。川原潤一さん(長崎)、弟子の深浦康市さん(当時奨励会2級)、その弟弟子の有川大輔くん(長崎)等です。当時の深浦さんといえば2級とはいいつつも、私や有川くんが角落ちで向かっても全力で指されて負けてしまいます。年齢が近かったせいもあるのでしょうが、他の大分県のおじさま達とさしているのとは、はっきり気迫が違うのです。いい勉強になりました。さて有川くんといえば当時14歳にして長崎県名人。私とは別格です。しかし同級生ということで、みんなが別府温泉に行ってるときも二人で指しつづけ、3日間で31番勝負、結果は私の15勝16敗というのも、いい思い出です。 この昭和48年生まれの九州の同級生には有川大輔、河原慶(福岡)、西谷明雄、吉永稔(福岡)、宗岡博之、秋山運朝等、多彩な顔ぶれが揃っており、いい意味で競いあっていたとおもいます。 ある全国大会の前夜祭のあと、蛭川敦くん(三重)と新宿に飲みにいったことがありました。二人だけで食事するのはもちろん初めてでしたが、早熟の天才といわれた彼とは同い年。一度いろいろな話を聞いてみたいとずっと前からおもっていました。あまり口数の多い彼ではないのですが、質問をするとちゃんとした答えが返ってきます。かなり勉強しているのでしょう。話は将棋の初手は何が最善手なのだろうか?に及びました。その時の話では▲7六歩はよさそうだ。それに対して、2手目△8四歩はどうも悪手の可能性が高い、ということを延々と話していました。しかし彼はいいます。「このレベルの話ができる人がまわりにいないから今日はじめてこのことをしゃべったんだ」と。僕はこの日のことを一生忘れないことでしょう。 平成2年3月には福岡県吉富町で開催される豊筑名人戦に初参加。勢いかっていったもののベスト8で古賀一郎さん(当時佐賀、現埼玉)に完封される。こんな負かされかたは初めてだったため、それから寝ても覚めても仮想の相手、古賀一郎さんを倒す事しか頭にありませんでした。豊筑名人戦で古賀さんは当然のように勝ち進み、決勝で西谷くんを倒して優勝。5月に行われた宗像王位戦1回戦で、私はなんと西谷くんと対戦。接戦を勝ちきったものの2回戦では古賀さんと再戦。もちろん策は2ヶ月考えてきていました。しかし実力が違いすぎるため完敗。まだ手のひらの上で遊ばれている感じでした。しかも古賀さんはそのまま宗像王位戦初の2連覇を成し遂げて九州を去っていったのです。私の記憶の中で古賀一郎さんは神のような存在として残っていたのはわかっていただけるでしょう。 平成8年9月、天童において、アマ名人戦決勝という最高の舞台で古賀さんと戦えたときは、夢のようでした。将棋の内容はともかく、自分らしさをとおすことが一番だと考えて戦ったことを思い出します。 平成2年9月大分県名人としてアマ名人戦に初参加。自分の実力以上の成果を出せてベスト8に進出。しかしここで白井康彦さん(愛知)に作戦負けから負け。実力が違うのはわかっていましたが、負けると止めどもなく悔しさが溢れてきます。それから私は白井さんを倒すために将棋をすることに決めました。このように自分を倒した相手を仮想相手としてシュミレーションをして、次の対戦でリベンジすることを目標とするのが当時の私の勉強方法でした。もちろんそのためには相手の得意戦法を知っておく必要があります。全国大会であたるであろう人の棋譜等を研究していたのも17〜18歳の頃だったでしょうか。それまでは振り飛車を得意にしていたのですが、居飛車党への転換期ともなりました。居飛車の様々な戦法を指し始めたのは、自分の将棋人生における大きな決断だったとおもっています。得意戦法を受けて立つのは相手の手のうちで戦うことにはなりますが、こちも研究を発揮できるという部分があります。もちろん相手の奥の手を引っ張り出すのも全国大会ならではの楽しみといえます。 勉強方法といえばあまり聞かれていませんでしたが、古典将棋を勉強しきはじめたのもこのころ。現代将棋にいきづまりを感じて古典を並べはじめました。天野宗歩、伊藤宗看(三代、六代)、宗銀−印達、木村義雄、升田幸三は特に勉強しました。今でもよく若い人にいうのですが、天野と升田は必修科目だ……と。この時の勉強が私を泥臭い田舎将棋から、少しはましな将棋指しへと変えたのだとおもっています。 私が将棋倶楽部24(以後24)を初めて知ったのは1999年3月。久米席主から連絡があり、記念対局として5月に2面指しをしたことが初めての対局。それからしばらくして24に登録をしていただいたのですが、ここの道場で知り合い、友人がたくさん増えました。実際にオフ会などにも参加したりしました。一昨年、北海道旅行にいった時に一緒に食事をしたメンバー二十数人のうち、1名を除いて全員が24に参加していると聞き、これはすごいことだとおもったものです。現在24を通じて某Sプロ、A女流プロ等、毎月指導をしていただいていますし、遠く離れている友人と対局ができるため、有効に利用させてもらっています。近代将棋道場では81番勝負がはじまりましたが、これもよい機会だということで引き受けさせていただきました。全国のみなさまとお手合わせできることを楽しみにしています。 次のリレー走者は24についての情報なら殆ど知っているのではないかといわれる方。どんな話が聞かれるか私も楽しみにしています。 (次回は西田佳代さんにバトンタッチ) |