リレーエッセーその28

将棋――自己を創造するもの

牛島 敬



 早いもので、将棋――正確には将棋の駒というべきか――と出会ってから約25年になる。勿論その25年間、常に将棋に関心をもって指し続けたわけでもなく、また、趣味という意味に於いてその他に追い求めているものが無いわけでもない。そういう私であるからそれほど将棋は強くもなく、過去に何か印象的な実績を残したことも、皆様に紹介できるような将棋もないというのが正直なところである。しかしながら現在に至っては、もはや私と将棋は切り離すことが出来なくなっていることもまた事実である。良きにせよ悪しきにせよ、将棋により私はいろいろなものを得たし、これからも得ていくだろう。プラスのものもマイナスのものも。今回エッセーを書かせていただくにあたり、本当に適切な題材を見つけることはついに出来なかった。何故そうなのか、それを考えたときに浮かんでくるのは自戒の念。この機会に私の過去――あくまで将棋との関わりに於いてであるが――を振り返り、表現穏やかに反省するのもよいかと開き直ることにした(お読みいただくにあたって、もどかしい表現がいくつかあるとは思いますが、ご了承いただければ幸いです)。

 私が将棋というものに初めて魅力を感じたのは小学校5年生のときで、一冊の、子供向けの入門書を完読してからであった。8種の駒の特性、長所、欠点(弱点)、其々の上手な使い方。更には駒組みや代表的戦法、玉の囲い方、詰将棋、必死に至るまで簡単ながら一通り網羅されたその本を読んで、子供ながらも将棋の深さを思い知り、感動した。私にとってそれまで長い間単なる卓上ゲームに過ぎなかったものがこのとき以来何か特別なものへと変わった。

 中学生の頃、2年間ほど地元の将棋道場に通ったこともあった。しかしそれを除くと、現在から約2年前まではあまり将棋に携わることは殆ど無かった。対局の機会は殆ど無かった為ともいえるが、定跡書を時に購入して読みかじったり、たまにNHK杯戦をテレビで観るなど、将棋への関心がそれでも薄れなかったのは我ながら驚きである。ただ、この時期(かなり長い期間であるが)は自分で対局するわけではなく、棋書(棋譜並べも含め)を読む、或いは観戦が主であったためであろうか、そこで展開される手、そしてその背景及び思想――それは哲学的・宗教的という、ちょっとご理解いただきにくい世界にまで思いは及ぶのだが――といったものに自然と神経は向かい、楽しむようになっていたように思う。どうでもいいことだが、これらの要素が将棋を超えて他の何かと結びつき、ひいては何らかの人生観に作用したことも事実である。但し、この独学の期間はあまりにも長過ぎたのだろうか、私は独りで勝手にわかったようなつもりで強くなっていると思い込んでいた。それでいいと思っていた。受験勉強によるディジタル思考、それは○か×かを見分けるかの如く反射的に物事を判断し、ごくわずかな世界を垣間見たことで全てを理解したと勘違いしていた。この間に社会人として就職もし、生活も大きく変わったりしたが、そういうこととは無関係に、将棋以外の他の趣味(音楽ですけどね)も手伝って、随分と堅い偏狭な考え方をするようになっていたように思う。気づいたのはごく最近の話だが。これ以上どろどろとは述べないが、本当に危なかった。

 しかしインターネットの普及がこのような私を変えた。それはもう、決定的といってよいほどに。それまで年に何回かの県大会にしか出場していなかった(対局そのものもそれだけ)私は、ある大会で、偶然昔からお世話になっている、通算では負け越しながらも勝ったり負けたりの先輩とあたり、結果として完封負けを喫した。短いながらも感想戦を行ったのだが、そこで出た先輩の言葉に衝撃を受ける。
「昨日のネット将棋と途中まで同じ進行」
ショックを隠せなかった。わかってはいたが実戦の勘を持つ者に勝つことは出来ない。理論より実践。度重なる実戦経験による判断力、応用力といったものは机上の勉強では遥かに及ばない好例で、私は完全に打ちのめされた。アナログ思考の復活。この大会に出場して、先輩と当たって、そして負けたことは本当に自分にとってよかったと、今は思う。

 負けることにより得られる弱者の思想、仕組み。勝つ為に必要な技術や知識は、棋風や得意戦法、そして勝ち方といったものによって、一般生活における人生観、生活観、経済観といったものにまで形を変えて潜在的に影響を及ぼしていると私は考える(但し指し手にどう現れてくるかは個人差があると思うが)。更には自分がどういう属性の人間かによって、それらはかなり違った価値観を伴ってくるとも。例えば組織の中で仕事をしていて、よくその戦略思想が将棋と重なり合う。

 年齢のせいか、それともなかなか思うように強くなれないという諦観からか、いつの間にか将棋に余計な観念を併せて持つようになってしまった。度々使う表現で恐縮だが、良きにせよ悪しきにせよ。現在私はインターネットで将棋をほぼ毎日のように指すようになった。先程の考えとは裏腹に、いつでも指せるという安直な考えで他のことをしながらいい加減に指していることがよくある。指し過ぎて本業に支障をきたす様では社会人失格である。ここではレーティングによってランク付けがなされている。まさに実力が人目でわかるようになっている。私はこのレーティングの上下に一喜一憂している。高いレーティングでもないのに、おまえは本質を見失っていると言われても仕方が無い。いつの間にか堕落した私。私自身が遊び駒になっている。お恥ずかしい……。

 ただ、勝負には拘りたい。拘らなければならないと思う。勝ったにせよ、負けたにせよ、勝負は結果である。何故負けたのか、どうすれば勝っていたのか(負けなかったか)――どういう風に負けるべきだったか、は行き過ぎか――を追求するのはどの世界にも共通して大事なことであると思うし、それを怠っては先は無いだろう。敗因が意外であればあるほど視野も広がる(私は敗が多いので……悪しからず)。その意味でも棋譜並べや謙虚な観戦は私には是非必要不可欠なものである。そう、この謙虚さが私には足りないのだ。

 9×9=81マスの小宇宙。8種類40枚の駒(駒落ちもあるが)により争われる戦場。一見狭苦しいこの世界に潜む無限の要素。驚くほどに深く、可能性を秘めた世界。よほどのことが無い限り私はこの世界にはまり続けることだろうし、離れるつもりも無い。激変する世の中、将棋もまた変わり続けるであろうが、今回改めて確認したのは、更に強くなりたいという願望を捨てていないことと、しかしいろいろな意味に於いて今のままではいけないということ。将棋に出会えてよかったと思うこと。ここまで生きてきたことと将棋を指せることに感謝しつつも、その環境は自分にしか作ることが出来ないという強気の姿勢を崩さずに、いろいろとどうでもいいようなことを書き連ねてきたが、自己を省みる大変いい機会であった。インターネットを通じてとても立派な方々と出会うことも出来た。このような機会を与えてくださった皆様に感謝申し上げ、今後とも御指導お願い申し上げると共に、私も進歩していきたい。まだまだ先は長い……

(次回は佐藤公一さんにバトンタッチ)