リレーエッセーその39

妻の願い

木村一基



 「お願いがあるのよ」。妻がいう。
 恐ろしい。まあ大体こう改まったいい方をする時はロクなお願いではない。聞かないほうがいい。逃げるのが正解である。
 だがそうもいかない。「言え」と言わないうちに喋りだした。
 「将棋パイナップルのリレーエッセイ書くことになったのよ、次の人がいないのよ」
 どうやらあてにしていた人に断られたらしい。
 将棋パイナップルなら知っている。上川さんの宵待日和、あれは必見である。ほんわかとした感じの文章、そしてボケっぷりにいつも感嘆するのである。あれは作っているのだろうか、それとも天然なんだろうか。
 「お願い」を聞いてしまった以上、聞かされてしまった以上選択の余地はない。
 さて、どんな事を書いたらいいんだろう……。

 将棋を覚えたのは幼稚園の年長の時だったと思う。隣に住んでいた同い年の友達がルールを教えてくれた。興味を持ったのはいいが、相手がいない。母にせがんで、何度も何度も負けた。未だに一番大きく負け越しているのは、母である。
 流石の母も相手をしきれなくなったようで、近所の将棋好きなおじさんの集まりに連れて行ってくれた。そこでよく教えてくれたおじさんが、千葉の将棋クラブに連れて行ってくれた。相手がいっぱいいて、楽しかった。毎週土日が待ち遠しかった。
 ある日、席主さんが「やってみなさい」と地黒のおじさんの前に座らせた。おじさんは飛車・角を抜く。入玉されて負けたことを今でも覚えている。
 「来週、家に来なさい」。おじさんは名刺を渡してこう言った。
 八段、佐瀬勇次。道場でアマ初段にもならないうちから、弟子入りすることになった。

 

 奨励会に入り、順調に進んだかに思えたが二段に2年、三段に6年半いることになった。
 その間に師匠がなくなり、かわりに沼先生が師匠になった。沼先生はいつもリーグの最終日に食事会をしてくれた。必ずぐでんぐでんに酔っ払っていたが。
 今でも鮮明に覚えているのは焼き肉屋に行ったことと、昇段を逃した時のことである。片方は勘定が二十数万かかった。もうひとつの方は不覚にも私が泣いてしまった。ただじっと、何も云わず、となりで呑んでいてくれた。
 そんな沼先生と順位戦で当たることになった。当時私は6連勝。沼先生は6連敗。降級点を持っていたので負けたら降級、という一番だった。
 苦しい将棋を例によって粘って、何とか勝ちになる。
 「俺のほうが良かったよなあ」。そういって沼先生は投げた。
 師匠に将棋で勝つことを恩返しという。何とも複雑な恩返しだった。

 

 結婚なるものをしてしまった。妻はなぜか連盟職員である。
 大半の棋士がカミさんに内緒にしている年に数回あるなぞの給料がばれてしまったり、「いや〜千日手になっちゃって終わったのが遅くてさ〜、飲んじゃったよ」なんて言っても次の日にはきちんと夕方に終わったのがわかってしまったりとか、勘弁してくれ、といったこともある。
 ただ将棋を指すことに理解があるのはいいことなんだろう。負けて帰った後も必ず「お疲れ様」といって迎えてくれるのは助かる。「勝った」とウソをいってもばれる。
 将棋に負けるのは辛い。職業としてこの道を選んだ者として、負ける度に自分の存在を否定されて落ち込むからだ。
 これからもそういったことの繰り返しが続く。自分の全盛期はいつまでなんだろう、そんな不安はいつでもある。
 タイトルを取りたい。取れるだろうか。無理だろうか。きりがない。

 

 この春からNHK講座の講師をしている。
 やってみて気づいたのは、これは大変な仕事だということだった。
 原稿、詰め将棋、校正、ゲラのチェック、番組の構成……。やるからにはいいものにしよう、と思っていたので張り切ってはいたが、なかなか上手くいかない。それでも講師として、個性は出せているかな、と自己満足している。何よりやりがいのある仕事だ。
 テレビカメラの前、というのは固くなるもので、話をするのもやっとだった。でも限られた時間の中でわかりやすく話をすること、緊張しないこと、これが身についただけでもやってよかったと思っている。
 いろいろな人にお世話になった。中でも、この人がいなかったら講座そのものが成り立たなかったと思う。頭の上がらない人がいる。

 次はその人にバトンタッチしたいと思う。



(次回は小暮克洋さんにバトンタッチ)