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最初に将棋パイナップルでリレーエッセーのコーナーを見たとき、「いつか自分に回ってくるのかな」とは思っていましたが、とうとう回ってきてしまいました。書かせて頂くようなこともあまりないので、少し自分のこれまでを振り返ってみようと思います。
将棋と初めて出会ったのは、6歳の頃だったと思います。父から教わったのですが、向こうに飛車角がないのに簡単に負かされてしまい、とても悔しくなっていたのを覚えています。どうしても父に勝ちたくて、必死で将棋の勉強をしていましたが、その後、1年くらいで平手でもいい勝負になると相手をしてくれなくなりました。まあ、良くあるパターンですね。
父が相手をしてくれなくなった後でも、近所にはもっと強いおじさんがいました。やはり二枚落ちでもかなわないくらいの手合いです。当然、悔しいです。でも、一度勉強したら強くなる喜びを知った僕にとっては、勝つために勉強をすることはとても楽しいことでもありました。結局そのおじさんにも1年くらいで追いつくことが出来ました。
こういった感じで少しずつ上達していき、次第に近所にも学校にも相手がいなくなりました。
ここは山口県宇部市の片田舎。周りに相手がいなくなると、将棋の上達方法は数冊の本とNHK杯に限られます。この時期、将棋世界などによく宣伝がある「通信講座」というものも受けていたことがありました。とにかく、情報を手に入れることに飢えていた時期でした。
市内に将棋道場があると知ったのは、小学校6年の頃でした。ここの道場の一番強い方とはやはり二枚落ちくらいの手合いで、「えらく強いオジサンがいるなあ」と思っていたものです。
ですが、この道場にお世話になることは実はあまりありませんでした。道場の方に、重本由紀夫さんの教室を紹介されたからです。
将棋を本当の意味で本格的に始めたのはこの重本教室からでした。そして、僕は重本さんへのご恩を一生忘れることは出来ません。
重本さんは本当にやさしい方で、将棋に限らずたくさんの事を教えて下さいました。バスで1時間と少し遠いのですが、毎週土曜に教室に行くのが本当に楽しみでした。大会に出始めたり、小松真成君や金築克祐君らライバルと出会ったのもこの頃です。
そして、初めて実績らしいものを残すことが出来たのは、中学1年の頃でした。ジュニア選手権(※1)の全国大会中学生の部で準優勝することができたのです。後で振り返ると、準優勝といっても奨励会試験と重なって
優勝候補が出場できなかったり、しかも7地区の代表のトーナメントで
シードくじを引いたことにより結局1勝(!)で準優勝という、内容の無いものであることは明らかなのですが、当時の僕にとってはとても嬉しいもので、そして、こう錯覚させるのには十分なものでした。「すぐにでも一般の県代表になれる」、と。
しかし、現実はそう甘くはありませんでした。
当時は重本さん、松本誠さん、白石雅彦さんが山口県の3強と言われていましたが、さらに北村公一さん(※2)が岡山県から帰ってきて、非常に手厚いメンバーになってしまったのです。4氏の豪腕に、僕はひたすら阻まれ続けました。
そして高校になると、今度は学生の代表にもなれなくなりました。
特に金築君には全く勝てなくなりました。彼が高校竜王戦で準優勝するなど輝かしい成績を残している中で、中学校から全く成長が無い自分が
情けなくなったりもしました。四間飛車一本だった棋風の改造も試みましたが、当然すぐに結果が出るものではなく、逆にこれまで負けなかった相手にまで負けてしまうようになりました。これまで将棋をやっていて、一番辛かった時期です。将棋をやめようかとも思いましたが、自分を信じてもう少しだけやってみよう、と言い聞かせていました。
要は、他に逃げる所がなかっただけなんですが…。
ようやく辛抱が実を結んだのは、高3の夏でした。県大会の決勝で金築君にようやく勝つことが出来て、高校竜王戦に出場できることになったのです。その高校竜王戦での武田俊平君との将棋(※3)は、今でも印象に残っている一局です。
さらに、その夏の中国素人将棋名人戦(※4)の県大会決勝で、松本さんに勝ち(3手詰めの局面で切れ勝ちという大変申し訳ない内容なのですが)、県代表と共に四段を獲得することが出来ました。県代表の証である四段免状は中学校の頃から本当に欲しかったもので、家に届いた免状を確認したとき、ものすごく嬉しかったことを憶えています。
さて、受験生にもなってこんな将棋漬けの生活を送っているので、当然浪人生活を送ることになる訳です。
志望校は立命館一本に絞っていました。
その頃は「将棋が強いから」という以外の大学の志望動機はありませんでした。問題の傾向も丹念に調べ、また学部を変えて4回受験したりして万全を期しました。明治も受験しましたが、いわば「おまけ」くらいにしか捉えていなかったのです。
しかし、二校の合格通知が来たとき、突然気が変わりました。「関東に行った方がいいのではないか?」と。
なぜ、あの時気が変わったかは今でもよく分かりませんが、何か見えない力が働いたのかもしれません。
明治の将棋部のことはあまりよく知りませんでしたが、「うまがみさん(*5)」という人が強いらしい、という情報だけはありました。ところが、新勧に行ってみると、なんと「清水上が入った」というではありませんか。
清水上徹君といえば、僕が小学校のころからブラウン管の中で小学生名人を獲得していたり、中学校、高校の全国大会も制覇するなど、まさに雲の上の存在でした。何かの間違いではないか…。
しかし、彼に会うと同時に、「明治に入って本当に良かった」と、心からそう思えるようになりした。
そしてたくさんの心強い仲間にも恵まれ、ついに去年の王座戦で明治大学は悲願の全国制覇を成し遂げました。僕自身は急所で全く勝てずにチームに迷惑をかけてばかりだったのですが、大学将棋を志すものにとっての最終目標である王座戦での優勝は、本当に感慨深いものがありました。
さらに、王座戦の後に行われた十傑戦でも、まさかの優勝を果たすことが出来ました。最初は「ここで勝つなら王座戦で勝たなければ」、とみんなに申し訳なく思っていましたが、そのうちに自分には一生縁がないと思っていた全国タイトルを獲得できたことを、素直に喜べるようになりました。
将棋からしばらく離れ、司法試験の勉強を始めようと決意したのもこの頃です。大学3年間遊んでおいて今更何を、と思われるかもしれませんが、ある程度の目標を達成できたことで、自分の中で区切りをつけることができたのだと思います。
そして、最後のつもりで挑んだ朝日アマ名人戦ですが、皮肉?にも朝日オープン2回戦、木村一基六段戦まで引退が伸びることになります。 1回戦が終わってから木村一基六段との対戦までの1ヶ月間は、本当に将棋だけに没頭し続けました。学校にもほとんど行かず、棋譜並べと
研究に明け暮れました。これまでもこれほど将棋だけに集中できたことはなかったし、そしてこれからもないでしょう。 木村六段戦の思い出の図面を、一つ掲載します。 
木村六段相手に、最も勝ちに近付いた局面です。ここで▲8三角△7二歩▲7三桂△6二玉▲6三金△同金▲6五角成なら明快な勝ちでした。本譜は▲7三桂と誤り、大魚を逃してしまいました。 この一局について、全く悔いがないといったら嘘になるかもしれません。ただ、この大一番で自分の力以上のものが出せたことを本当に嬉しく思っています。このような機会を作って頂いた朝日新聞社の方々に感謝します。 ここまで、自分の過去を将棋と共に振り返ってきたわけですが、つくづく僕は「本当に恵まれているな」と、思います。本当に、いろんな人たちに助けられてばかりで。 でも、いつまでも助けられているばかりという訳にもいきません。 7年間通い続けた重本教室も、今はもう、ありません。 そろそろ自分の力で頑張っていかないと。そう思う、今日この頃です。
※1 昔、毎日コミュニケーションズ主催で行われていた小中高別の全国大会です。今はありません。
※2 将棋「だけ」は尊敬できる方です、と言っておきましょう。冗談ですよ(笑)。
※3 明大将研OnLineに棋譜を残してあるので、物好きな方はご覧になってください。
※4 中国5県の名人を決める大会です。宮本浩二さんの11連覇は不滅の記録です。
※5 馬上(もうえ)勇人さんのことですね、ええ。
さて、次回はいよいよ今をときめく武田俊平アマ王将の登場です。
アマ王将らしい威厳に満ち溢れた文章を書いてくれるはずなので、期待しましょう。
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