リレーエッセーその66

将棋昨今

藤原雄三



 困ったことになった。
 思いがけもなくリレーエッセーが回ってきた。お世話になっている福山の竹内茂仁さんからのお話で、つい引き受けてしまった。将棋と一緒であとから後悔している。さて何をテーマにしたらいいのか?
 とかく若い人には「年寄りの話は昔の事ばかり」とうとんじられる事が多い。だから私はトシを取っても「昔は・・・」などとは言わないように心掛けようと思っている。しかし将棋を再開してから妙に若い人に昔話を聞かれる事がよくある。「どうしてなのか?」と不思議で仕方がない。その殆んどが真剣のことと、今のトップアマと昔の強い人との比較みたいな話である。だが私は真剣屋じゃないし、また今のトップアマの力をとやかく云う程の資格もない。私が一番聞かれたいのは名人との事なんだけどなぁー。


 私の住む町は岡山県玉野市と云うところ。瀬戸内海に面して風光明媚で魚は旨いし、米も美味しい水も・・・水は水道か。そしてかつては本州と四国を結ぶ玄関口として宇高連絡船が通う活気ある街でした。汽車から(如何にも時代を感じさせますが・・・)降りた人達は、船の待つ桟橋めがけて長いホームと陸橋を一目散に走るんです。座席を確保するためにネ。もちろん船から下りた人も全く同じで汽車の席確保のため走るんです。客が多かったんですね。駅名は「宇野」駅。その宇野へ多くの真剣屋がきましたねぇー。三崎巌池田大助大田学清川。更には当時の現役プロ棋士や加賀敬治富賀見。富賀見は後に岡山に何年かいて県大会に参加したこともある。

 初めて三崎さんに指してもらったのが私が18歳の初冬。あと数ヶ月で19歳になろうかと云う頃だった。氏を案内してきたのが岡山の真剣屋の大饗豊さん。当時大饗さんに敵う相手は岡山になく、「香香角か倍層までなら、何時でも誰でも」と自ら豪語していた。
 1954年(昭和29年)、第8回アマ名人戦の岡山県大会で優勝したのは大饗さん。だが大饗さんはある事情で棄権のやむなきに至り、代理出場の上総雄二郎さんが全国優勝と云う事になった。
 その大饗さんと私が指したのが1956年の秋。約一昼夜少々のデスマッチだった。以後、大饗さんはアマ名人戦に一度も出場しなかった。1960年(昭和35年)、私が西名人になった年には久々に中国名人戦県予選に参加され、私と決勝を争った。それが最後の大会参加だった。その時まだ32か33才という若さ。それからは「碁の方が○○が多い」という理由から、囲碁に転向されたと聞いた。○○をカモと思われてもよし、相手でもよし、いずれにせよ大きな違いはない。
 三崎さんとの手合いは香四番・角一番の五局一組。サウスポーで華麗な駒さばき、妙に陰気な感じを受けたが「強いなぁー」と思った。角落ちまで負かされ、1勝4敗の惨敗は勉強になった。その時に主として西日本のアマ棋界情報を聞き、何処の誰が強いとかの話に「出来るなら彼のように将棋行脚をしたい」なんて思った。

 その数ヶ月後に広島の池田大助さんが「今度岡山へ来たけん、よろしく」とみえた。まるで赤鬼のような大きな身体で赤ら顔の豪傑でした。私が19歳の春です。7局指して3勝4敗だったが、この年のアマ戦の準々決勝で負けたのは痛かった。
 その秋、今度は大田さんが来た。手合いは香落ち。早指しの大田さんとは夕方から朝まで数えきれないほどの番数を指した。結果は大差の僥倖であった。

 この一年で猛者連にしっかり鍛えていただき、可成りのレベルアップになったようには思う。その後三崎さんと何度かお願いする機会?があったが、真剣屋の悲哀と言うか、彼らも持ち金がないときは惨めで、いささか将棋も弱くなったようだ。三崎さんも宇野で一週間以上も国からの送金を待っていたが、届いたら直ぐ大阪へ行って、イヤ、帰ってしまったので、残念ながら・・・見送りも出来なかった。もっとも後に大阪で会い、一度食事に誘ってもらったり、平畑善介さんとの対局仲介をしてくれた。この時平畑さんは何歳だったのか。トシを感じたが、今思えば今の自分くらいかも・・・。全盛期を知っているわけではないが、すでにその冴えはなかった。しかし超早指しで往事の実力の片鱗を感じたものです。

 加賀と初めて指したのは1964年(昭和39年)のアマ戦の夜。お互い意識していて探り合いみたいな事もあった。結果は「藤原さん、レパートリーが広いんでんナ」。
 それから1965年(昭和40年)に「近代将棋」誌でアマプロ戦があり、私にも声がかかり上阪した。相手は土井春左右プロ三段。観戦記と記録をかねて東京から南川義一さん(私のアマ名人の夢を潰した悪い男である)が来られていた。私の応援には大阪の強豪で当時売り出していた小林正美さん。親しい間柄で、振り飛車の達人だった。
 対局のあと小林さんに河豚をご馳走になり、ミナミの加藤クラブへ行った。一局指したのか対土井戦の研究をしたか記憶は不確かだが、そこへ加賀と本多正巳さんがやって来た。これは決して偶然ではない。くすぶり連中の情報網は結構速くて、今で云うならさしずめADSLクラス。朝方から寝て夕方起きて、それからあちこちと電話でお客さんを探すのが日常の事なのだ。私も彼らと何度か行をともにしたが、真剣屋の最重要課題は、なんとしても相手を掴まえること。そうでなければ「しのぎ」が出来ない。勝ち負け以前の問題だから、「加藤クラブへ岡山の藤原が来ている」となれば、当然加賀がやって来るのは私には読めていた。何故他ならぬ加賀なのかは、前年彼がアマ名人になった西地区大会の夜戦のお返しをしなければ彼のプライドが許さないはずだから。
 敏感に察した小林さんから帰り際、「加賀を相手にするな」とアドバイスを受けたが、彼等にホテルも紹介され三人で同宿、当然対局となった。本多さんは何度も大阪代表になった実力者だが襖の向こうで美女と戯れているらしくて対局者は気が散ってしかたない。加賀が「うるさいなぁー」と言っても本多さんには聞こえてない。翌日の夕方まで指し、7勝10敗で3局の負けだった。

 その翌年を最後に私は将棋をやめたが、加賀とはその後何度も逢った。場所は競輪場。大体下駄ばきで後ろポケットに文庫本を持ち、スタンドの上で予想紙ならぬ文庫本を読んでいる。岸和田から難波まで電車で一緒に帰ったこともあるが、あの将棋の虫が、将棋を指そうとは一度も言わなかった。


 終わりに今昔強豪は?ですが、今も昔も強い奴は強い。羽生が全盛期の名人より強いとも思わない。序盤が違うとか云っても、昔の人が今現存していれば当然こなすでしょう。
 ただアマの場合は完全に底上げされていて、全体のレベルが随分強くなっているように思う。昔はあそこに誰、ここに誰とか指を折り数える事が出来たようですが、今はアマ強豪なんてとても数え切れないくらい多いように思います。ただ私は一部分しか見聞していませんからあしからず。

 なを名人とは当然ながら大山先生のことでした。大山康晴、升田幸三等々の人達が皆んな全盛期の力を持って生きていたら、楽しいでしょうね。



(次回は里見香奈さんにバトンタッチ)