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リレーエッセーその69 将棋普及と私 松田竹二郎 |
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1.大学のころ 私が「将棋の世話」をし始めたのは、やはり、大学の時からだろうか。大学内で学園祭があり、その時、将棋部主催で、学内の将棋大会を開催した。それから、ちょくちょく、部内のリーグ戦を開催したりと、なんとはなしに、将棋もするが世話もするといった感じであった。その時の、広島の状況は、奨励会上がりの篠崎瑞夫さんという方が主宰されていた棋楽会という支部と、後に、広島将棋センターを開設される本多冨治さんが広島将棋同好会支部をつくられており、支部会員数が、全国でも2番目・3番目という有数の「二大勢力」という図式の中にあった。 私は、幼なじみの紹介で棋楽会に入会しながら、同時に、大学将棋の世話では、本多さんにお世話になるというような「ねじれた関係」で、昔から「二股をかける」癖は、このころからだったのだろうか。 まあ、しかし、大学を卒業して田舎に帰ってからは、休日の将棋大会に「選手」として広島市内の大会へ出ることはしばしばあったが、しばらくは、地元で将棋の世話はすることもなく、過ごしていた。 2.村山九段のこと ただ、その「選手時代」で、一つ書き留めておかなければならないことは、村山さん(聖九段)のことだろうか。当時の村山さんは、小学生であり、最初、短期間ではあったが、棋楽会に所属されていた。棋楽会では、毎月、月例大会があり、その度に、村山さんと対戦したことをよく覚えている。たしか、四度対戦して、すべて、私の負け。一局目、序盤で優勢になったが、終盤びしびし来られ、逆転負け、二度目の対戦も、序盤で少し有利になったものの、終盤ではきっちり負かされていた。3・4局目の対戦では、もう、将棋自体が、勝負にならなくなっていた。とにかく、短期間で急成長されていった。しかし、いかんせん、棋楽会だけでは、相手ができるものがいなくなった。それで、村山さんは本多さんの主宰する広島将棋センターにしばしば通われるようになった。腕を磨かれた村山さんが奨励会を受験されたのだが、一度目の受験では、「ほとんど合格」でありながら、奨励会入りを認められなかったのは、もちろん、二大勢力にはさまれた、「広島時代のしこり」があったのである。 村山さんの一年間のブランクは、とても惜しかった。 3.将棋教室 さて、私の話に戻そう。職に就いた直後は、「普及の活動」はしなかった私が、世話を始めたのは、勤務先の近くで公民館の事業として、「将棋教室」を開いてほしいという依頼を館長さんから受けたことがきっかけだった。隔週土曜日の開催だったが、週1ではしんどすぎるし、月1では間隔が開きすぎるしで、月2回のペースはちょうど良かったのか、数年間も教室が長続きし、その間には、「すくすく王将杯」といって、小学生3人の団体戦で、全国大会に二回出場するということこも、励みになった。 こんな中で、近辺では将棋大会もぼちぼち開かれており、いわゆる「選手として」参加していた私だが、大きな転機は、やはり、世話をされていた方が普及半ばで、亡くなったことであろう。今後、だれが、将棋の普及をしていくのだろうかということで、結局は、なんとなく、私がやりだしたということが、事実に近いかなと思う。実際には、そのころ、市の中心街に新たにショッピングセンターができ、そこで「文化教室」の募集が始まり、ここでも、土曜日に教室を開設した。 4.「レーティング」との出会い また、支部も同時に世話をするようになり、さらに、これと前後して、「レーティング」「将棋ジャーナル」「アマ連」というものと出会った。特に、レーティング関係の大会については、アマ連設立当初、岡山辺りで1回本部が来て開かれたことはあっても、その後、だれも世話をするものが、いなかった。鳥取県で、毎1回、全国大会の予選が開かれていたけど、それ以外は、中国地区では、だれも手をつけようとしなかった。だれもやらないのであれば、自分が世話をやっていれば、一方では、「選手として」も、良いことはあるだろう、ぐらいの気持ちだったことは確かである。 地元でも、週1で、10人程度の少人数でだが、レーティングの例会を続けて、かなりの、成果はあったと思う。「点数が上がり下がりするのが面白い」程度の低次元な意識ではあったが、でも、地元で親睦の意味もこめて、わいわいやっているのは、貴重なことであったと思う。 さて、レーティングの普及については、以下に、まとめて書いておく。 私の地元では、毎月1回の月例会を今でも、続けて来ており、開催数も200回を越えた。 広島では、将棋センターで、私主催で2・3度大会を行ったら、本多さんが、「理解」を示していただき、それ以来、今日まで、「レーティングの例会」が将棋センターの行事として行われてきている。ありがたいことである。福山だが、今泉さんが奨励会に入られる以前から、月1回のレーティング大会を私がすべてとりしきって、開催してきた。自分の知らない土地で月1回の開催ペース、参加数は毎回30名前後。確かに80キロ離れた土地では、きつかったが、開催も100回は達成した。現在は、福山には、アマ連の支部ができたので、私は手を引いている。支部と言えば、現在、岩国支部と鳥取はわい会館、毎月、例会がある。岩国には、当時何度か行ったことがあるが、その後は、独自開催。はわい会館は、私は全くノータッチ。むしろ、中国地区内でノータッチはそのことが、珍しい。尾道も月1開催だが、これは連盟の支部の開催だから、ちょっと事情が違う。現在、定期的に例会が行われているのは、以上だったか。 地方の事情を書き出すと、キリがないので、私が訪問して、1度でも大会が開催されたところの地名だけ、書いておく。最近は、庄原、三原、世羅、高野、吉田、千代田。古くは、呉、倉敷、岡山。訪問しただけなら、松江、米子、山口、鳥取などもある。 昔は、遠出して、各地の道場を訪ねるのも、よくやった。本部のみえ将棋センター、旧本部の立川道場はもちろん、西日暮里、チェスセンター、京都、大阪の各道場、福岡、長崎など。 まあ、私は人づきあいは、上手ではない。全くと言っていいほど、下手。まあ、しかし、将棋の世話があることで、いろいろな人とめぐりあえたのは、幸せである。 5.インターネット 私は、レーティングの集計をする関係上、かなり以前から、「パソコン」には、触れていたが、パソコンの腕前は、全く上達しなかったし、インターネットに接することもほとんどなかった。本格的に「インターネット」で交流しだしたのは、やっと、2000年になってからだ。しかし、それ以来、ずいぶん、生活が一変した。ちょっと、横道にそれるが、事務的作業に関してまとめておく。一昔前までは、郵送という手段しかなかったのだが、今では、大会開催後の集計表はまだ電話FAXは使っているが、ブロック内の参加者のデータについては、さすがにメイルで送ってもらうようになっている。もちろん、パソコンを初めて買ったときは、一人一人の参加者の持点や局数などのデータを手入力で行うことから始めた。しかも、毎週の大会の集計表やカードを郵便ポストに突っ込んだり、また、データをフロッピーに入れてもらって郵便屋さんからもらったのは、ついこの前のことであるような気もする。 さて、なぜ2000年から、インターネットに入っていったかとよくよく考えてみると、それは、やはり、インターネットの将棋道場である「将棋倶楽部24」の存在であった。だが、私の場合、ネットで相手を見つけて、将棋を指したいという動機では、さらさらなかった。実は、インターネットに頻繁に入りだしたのも、「レーティング」がらみなのである。その辺の、事情を整理すると、次のようになる。 1999年中に、アマ連本部から、「倶楽部24というインターネットの道場で、レーティングをやろうと思うのだが、松田さんはどう思うか」という問い合わせを受けていた。道場レーティングについては、1995年ごろには「私的な構想」は立ててはいが、さすがに、インターネットでやるとなると、かなりの勉強がいる。それが、きっかけなのではある。 とりあえず、「倶楽部24」の資料を収集するために、インターネットを使うほか、頻繁にメイルを打つようになった。 アマ連本部では、倶楽部24の久米宏さんの援助もあって、5月の時点で、HPが初UP。遅れること、1ヶ月、私のところでも、HPを自力で立ち上げ、8月までには、中国地区内の参加者のデータを市町村別にUPすることができた。 ところが、それ以来、倶楽部24では、対局することもなく、掲示板の書き込みで追われることが、多かった。確かに、倶楽部24の掲示板であれば、全国の方と、意見を交わすこともできるのだが、なかなか、自分の所のニュースや案内や点数結果は載せにくい。確かに、自分でHPを出したのだから、こまめにHPを更新をしていけば良いはずなのだが、これは、やったひとでないとわからんだろうが、とても、やっかいな作業である。 それで、2002年の4月になって、自分専用の掲示板をつけたが、一つのスレッドでは、なかなか、手狭になったので、2ヶ月後には、多くのスレッドが建てられる形にして現在に至っている。掲示板をよく見比べてみると、この「将棋パイナップル」と同じタイプの掲示板だというのは、かなり後になって気づいた。 それはともかくも、私の掲示板は開設以来、アクセス数も日に100件を越えることも多く、書き込みは少ないが、皆さんに見るだけは見てもらっているのかなと思い、ありがたい気持ちでいっぱいである。 6.ネット棋戦 話は、2000年に戻るのだが、今、思えば、2000年の時点は、やはり、私の大きな転機であった。インターネットで将棋が盛んに指されるようになった時点で私は将来設計を次のように描いた。 こう、気軽に自宅でも全国の人と将棋が指せるようになれば、将来的には、全家庭がインターネットでつながれて、将棋が指せるようになるだろう。 そうすれば、アマプロに限らず、ネットで対局と言うことも、現実的なものになってくるであろう。 しかも、ネットには国境もなく、全世界の愛好者とも、将棋ができるようになる。 将棋が全世界に拡がる大きなきっかけになろう。 例えば、将棋大会も、ネットで実現可能だし、まずは、インターネットでの棋戦づくりが必要だ。 アマ連などには、職員が常駐しており、ネットに詳しい者もいるので、仕事分担をすれば、十分イベントの開催が可能ではないか。 そして、全国大会の予選枠のいくつかを、ネット大会に拡大する。例えば、代表1〜2名をネットで選出して、全国大会へ招待する。まあ、その時点でも、ネット上で、いかに「不正」を排除していくかは、気にはしていたが、将棋を指す人は性善説と、例え、予選を他のものに力を借りて、抜けたとしても、全国大会では、もはや自分の力を頼るのみ。予選で不正をしていたら、それは、本人の恥になるだけであろう。 それより、遠方より予選大会に参加する手間もはぶけ、しかも交通費などを支払うことを考えれば、ネットで多少の参加費を払うぐらいでもお釣りがこようというもの。 そして、このシステムが、大手の新聞社の全国大会でも、取り入れられるようになれば、かなり、ネット大会も市民権を得られるだろう。 ネットで、将棋が世界に広がることで、向上を目指す方には、遠方からでも、指導が可能。一方で、世界に広がりが出れば、国際大会をネットでやることも可能になってくるであろう。 国外での参加者の増大と棋力の向上。やがて、外国の青少年が奨励会を受験し、奨励会を突破し、外国人棋士が出るようになれば、かなり、将棋も国際化してこよう。 特に、中国の子どもたちに広がりを見せている。 特に、中国北京で、2008年には、オリンピックがある。 オリンピックの正式種目には、無理にしても、せめて、オープン競技として、オリンピックでアピールできないだろうか。 まあ、夢は限りなく拡がった。 7.着実な普及活動 しかし、この夢物語も、昨今の状況を見ると、決して、順調にはすすんでいないようだ。結局、私は2002年から、地元を中心とした着実な普及活動を進めることに力点をもどした。 一つは、地元の教室や支部の運営。 一つは、中国地区を中心としたインターネット掲示板(http://131.206.108.31/~matsuda/han/)の運営。 そして、さらには、レーティング理論と制度の研究。 まだまだ、どれも、志半ばだが、時間を節約してがんばっていきたい。 8.おわりに レーティングの理論や制度のことについては、いろいろ書きたいことが山とあったのだが、いったん理論や制度のことを書き出すと「終わりがなくなる」ので、あえて、エッセイには書かないことにした。興味のあるかたは、私の掲示板に来て下さい。
(次回は谷本誠一さんにバトンタッチ)
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