リレーエッセーその78

見果てぬ夢

吉田俊哉



 竹内さんから、思いがけずリレーエッセーのバトンを渡されて、何を書いたものかと、しばらく悩んだのですが、一つ問題提起をしてみることにしました。ちょっと長い文になりましたが、気軽に読み流していただきたいと思います。
 『夢』について語ってみます。


 六才になる甥に「大きくなったら、何になるの?」と聞いてみた。
 三才のころには「ウルトラマン」という答えが返ってきていた。
 四才になるころに、ウルトラマンにはなれないらしいと勘づいたようで、「仮面ライダー」と志望が変わった。
 近頃になって、これも叶わぬ願いであると気づいたらしい。それでも「『何とかレンジャー』になるんだ」と、元気よく答える。
 『地球を守る』というテーマには変更がないらしいところが、さすがである。


 『夢』とは、何だろうか?
 マーティン・ルーサー・キングが「わたしには夢がある」と語ったとき、彼が思い描いていた未来の社会は、『実現不可能なファンタジー』だったのか、『世界中が力を合わせれば実現するかもしれない理想』だったのか、それとも『日常的な努力の積み重ねによって到達できる目標』だったのだろうか。夢を語るとき、わたしたちは、どの意味でこの言葉を使っているのだろう。
 新聞や雑誌でときおり特集される少年少女の『将来の夢』をみていると、面白い傾向があることに気づく。
 女の子は、ケーキ屋さんとか看護師さんとか、実現可能な目標の設定を答える例が多い。
 男の子は、宇宙飛行士とかスポーツ選手とか、ファンタジーに近いものを『夢』と答える例が多い。
 しかし、ファンタジーと現実を混同しがちな男の子も、やがて上級生になると、世間を知って将来を功利的に見るようになり『夢』の内容も弁護士とか医師とか、果ては公務員といったシロモノに変わってくる。情けないけれど、今の日本社会では、それが大人になるということなのだ。


 さて、そういう意味では、わたしは四十を過ぎたいまでも、濃厚に子供であるようだ。
 わたしの『夢』は、昔も今も『世界征服』である。
 悪の秘密結社の首領が、みんな申し合わせたように目指すこの夢が、いつのまにか幼いわたしの心の中で、自分自身のものとなっていた。
 ショッカーやスペクターは悪者だから、彼らの世界征服は確かにゆるせない。
 しかし『世界征服』自体は、悪いことだろうか?
 ぼくが世界を征服して独裁者になるのなら、べつに悪いことじゃないような気がするなあ。なにしろぼくは、まちがいなく正義の味方だから。そうだよな。うん、決めた。ぼくが世界を征服してやろう。
 想像がここまで進んでくると、世界征服の方法とは別に、もう一つむずかしい問題が出てきた。何のために世界を征服するのか、である。
 「さて、正義の味方さん。世界を征服して、それでその後は何をするの?」
 子供はひとしく天才である。わたしも子供のころは、天才の一人であった。
 名案がただちに閃いた。
 『ぼくが世界を征服したら、本当に平和な社会をつくる』
 いいアイディアでしょう?
 史上唯一、アレクサンドロスのみが実現に近づいたこの夢。これを思いついたところが、われながらたいしたものだ。
 (世界の奥深いところには、解決しようのないドロドロしたものがあり、平和を実現するにはそれをどうにかしなければならない。そのことに想到しなかったのは、まあやむを得ない)
 さあ、目標は決まった。
 さて、具体策だ。現代に生きるわれわれには、どんな方法が可能だろうか?


 小学生のころには、世界平和を実現するために、世界政府を樹立して、自分がその大統領になろう、と構想をたてていた。可能性は小さいとしても、何とか巧くやる方法があるのではないかと、希望にみちあふれた少年は、本気であれこれ考えたものだった。
 しかし世界政府の大統領になるには、その前段階として、政治家か革命家にならなければいけないようだ。どちらも自分には適性がないようである。中学生のころに、この現実に気づいた。
 政治の現実を見すえて清濁合わせ呑む度量、革命を戦い抜く情熱と信念、そのいずれもわたしには縁のないものだった。
 どうやら、ぼくには無理みたいだなあ。
 ウルトラマンになるのをあきらめた幼児のように、わたしの子供時代の夢は、こうしてあっけなく終わった。
 しかし心の奥底に、何かの形で、自分の望む方向に世界を変えてみたいという願望を残したまま、やがてわたしも普通の高校生になった。


 将棋にハマって、親や先生を嘆かせたのは、ちょうどそのころである。
 そこには、日常生活の延長でしかない世界とは別に、もう一つの広大な宇宙があったからである。ハマるなって言う方が無理なんだよね。
 わたしは、まず自分が可能な限り強くなりたいと思った。将棋ファンならたいてい最初はそう思うはずだ。この分野で行けるところまで行ってみたい。それがおれの世界制覇だ。こうして、将棋で強くなることが、人生における重要な目標の一つになった。
 しかし、現実は厳しい。 強くなるのはたいへんだ。
 しかも、大学に入って、自分が井の中の蛙であったことを痛感させられる。
 本物の天才たちと出会ってしまい、才能の限界というものを思い知り、執念の差を間近に見てしまう。
 どんな分野であっても、野望にあふれた青年が、己れの限界を悟り、凡人として生きていくしかないのだと自分に言い聞かせるのは、辛い出来事である。
 それでも、強くなりたいという想いは断ち切れない、誰もがそうであるように。
 棋書を読みまくり、大会にはできるかぎり出場し、少しずつ自分の立つ場所を高いところへと押し上げようとして、何とか県代表まではたどりついた。本音を言えば、もう少し上に行きたい。
 しかし、気づいてみるとすでに齢不惑を過ぎてしまった。体力と気力が落ちてきて、今の乏しい棋力を維持するのが精一杯である。選手としての自分には、もう上がり目がないようである。
 周囲を見回せば、同年代の仲間たちも、選手としてではなく、運営者として力をふるおうとする向きが多くなった。
 現役を半ば降りて、裏方としての仕事に回るべき頃合いなのであろう。
 まあ、それも悪くはないかな。


 こうして将棋に対するスタンスが変わると、野望もまた形を変えた。
 日本文化の精髄たるこの素晴らしいゲームを、世界に広めよう。世界中の人を将棋ファンにすれば、世界征服によって平和を実現するという目的も半ばかなえられるではないか。子供のころの野望が、近頃このように形を変えてよみがえったのは、必然だったかもしれない。
 世界に将棋を広めるための活動を、実際に始めている人たちがいる。
 自分もそれに参加できたら、と思ってはいるのだが、なにしろわたしは筋金入りのなまけものである上に、全然自己管理というものができなくて、時間を捻出できない。
 仕事をこなすだけで精一杯、というより、よく仕事をこなしているなあと、自分で感心するぐらいのものだ。
 こんなわたしにも、無理なく楽にできることが、何かないだろうか?
 一つアイディアが浮かんだのである。
 法律事務という仕事がら、わたしは常に『規則』というものを意識して生きている。
 将棋を世界に普及させるために、ルールの問題を自分なりに考えてみたのである。


 考え始めると、まずおどろくべき事実に突き当たる。
 将棋のルールとは、いったい何だろうか?
 誰か将棋のルールを御存知の方がいらっしゃったら、教えていただきたい。そう言っても、大方の人は、首をかしげるばかりだろう。
 (ルールって言ったら、決まってるじゃないか。飛車はこう動いて、金と銀の違いはこうで、二歩は禁じ手…うんぬん)
 なるほど、それが将棋のルールだ。
 だが、それは何によってそのように定まっているのか?
 「連盟の規定があるじゃないか」と言う人もあるだろう。確かに日本将棋連盟の対局規定は、成文化されたルールの一つの例である。
 ほとんどの場合、これに準拠する、と言えば普通の人は納得するだろう。
 しかし連盟の規定はプロ棋戦の対局規定である。『将棋』そのものがどういうゲームなのかの説明はなされていない。
 そもそも、将棋における勝利条件あるいは敗北条件とは何か?
 着手とは? 手番とは? 反則とは? それは何を基準に判定されるのか? 誰がどういう権限で判定するのか?
 こういう素朴な、しかし根源的な疑問を投げかけられたとき、何を根拠にして答えればよいのだろうか。
 つまるところ、返答に窮することになる。
 なぜかというと、将棋のルールには慣習のみがあって、成文化されたオフィシャル・ルールというものは、この世に存在しないからである。


 役員として、大会で起こる様々なトラブルに裁定をくださなくてはならない場合が多くなってきた。
 大会では、あらゆるトラブルが起こりうる。さらには誰も想定したことのない事件さえ起こってしまう。そういう事件を起こす人たちは「いったい何を根拠にして、あんたはそんな判定をくだすのか」と詰め寄ってくる。この世はゴリ押しと屁理屈と奇妙な論理に満ちあふれているのだ。
 世界に冠たる曖昧性と事無かれ主義の国、日本国内でさえこのありさまだ。
 広い世界に出て行けば、さらにとんでもないトラブルが発生するのではないだろうか。
 そういうとき、頼りになるのは何か?
 われわれ日本の温和な将棋指しが頼るべきものは、将棋発祥の地としての権威しかない。そして権威を異文化の人々にも納得させるためには、論理的にルールを構成しておくのが、最も重要な基本ではないだろうか。


 数年前、将棋世界誌の付録として付いてきた堀口弘治六段監修のルールブックは、とても良い試みだった。
 だが、今まで述べたような理由から、海外普及のためにも、もっと根源的なところ、つまり術語の定義まで詳細に規定した『オフィシャル・ルール・ブック』が必要だと、しばらく前から感じていた。
 そうか、ならば自分でそれを作成してみればいいんじゃないか、とこのごろ気づいたのである。
 多分、そういう形でなら、今の自分でも充分に世界に貢献できるであろう、と。
 いずれ草案を発表しようと思っている。
 それが何時になるかはなんとも言えないし、他の人が先駆けて案を提示するかもしれないが、それでももちろんかまわない。
 とりあえず、今はこの場を借りて、そういう構想の必要性を訴えておきたい。


 世界征服の野望は、このようにして『将棋のオフィシャル・ルール・ブックの起草者の一人になること』と形が変わった。
 はたして、これは実現不可能なファンタジーだろうか?
 それとも、日常的な努力の積み重ねで到達できる目標だろうか?


 リレーエッセーのバトンは、わたしに『将棋にかける想いの深さの違い』を思い知らせてくれた一人である畏友、奈良岡実氏にわたします。 


(次回は奈良岡実さんにバトンタッチ)