リレーエッセーその86

思い出話
〜観戦生活、ジンクス〜

古澤貢治



 私が東大将棋部に入った昭和60年は、ちょうど金子タカシさんをはじめとするレギュラー陣が揃って卒業し、降級も懸念されていたそうです。しかし、実際にはその後の数年間、東大将棋部は個人戦、団体戦ともにかなりの好成績を収めることになります。私個人の成績はまったくたいしたことのないものでしたが、東大将棋部という居心地の良い空間にどっぷりとはまりこみ、1年の秋以降には、ほぼ全ての大会で応援に出かけるようになっていました。仲間が優勝しようものならば、その夜のお酒は美味いことこの上ありません。

 2年生の春には同期の松田一彦が関東学生名人になります。学生名人戦では小暮克洋さんが優勝します。学生名人戦は平日に行われており、私はたしか学生実験と重なっていて観戦しそこなったと思います。

 3年生の春には松田がまた関東で優勝し、学生名人戦では構井俊英さんが優勝します。この年の学生名人戦も、やはりまたも学生実験のために決勝戦は観戦しそこなっています。夏の東日本大会では、1年先輩の早田尚貴さんが優勝します。余談ですがこのときの決勝で、後手が△2一金と打てば先手の1一の竜が詰むという幻の次の一手がありましたが、数年後ある本にとりあげられていたのには大変意表をつかれました。

 翌昭和63年の冬、学生王座戦で東大は55勝という勝数新記録で優勝します。最後の早稲田大学との対戦は消化試合となっていて、私にも記念出場の機会がありました。しかし、相手がライバル早稲田だったので、来年以降のために若いヤツを出すべき、と考えて出場しませんでした。私には「4年間一度もメンバー表に名前を書かれなかった」という結果が残りました。それも自分らしいことだと、当時も今も思っています。
 王座戦の後の十傑戦では松田が決勝まで進出しましたが、結局は準優勝に終わりました。私は決勝戦を積極的には観戦せず、対局の状況をほとんど覚えていません。投了の瞬間だけは観ていたような気もします。自分の大学将棋も一緒に終わってしまうように感じていたのかもしれません。終盤、東海大学の遠藤正樹が、「松田はもうのがさないよ」と(結果はそうなりませんでしたが)教えてくれたことをやけに覚えています。

 現役としての学生将棋は終わっても、実は私の観戦生活にはあまり変化はありませんでした。まあ、大学院生だったこともあり、ヒマだったわけです。翌年の平成元年は、金子さんが活躍した年で、朝日アマ名人戦では準決勝進出、夏のアマ竜王戦では優勝しています。このアマ竜王戦は研究室(私と金子さんは同じ研究室!)の合宿と重なったため、私は観戦することができませんでした。金子さんは翌年の朝日アマで、今度は決勝敗退。多分このころに、金子さんか誰かが、「古澤が観ていると全国優勝できない」というジンクスを発見したと思います。
 このジンクスがなかなか強力で、さまざまな形で発現します。まず王座戦・十傑戦を観に行かなくなると、とたんに篠田正人が十傑戦で優勝します。翌年、けったいなことに松田と二人で天童まで(しかも夜行列車で)竜王戦を観にいくと、準々決勝で、篠田の「詰ます必要がない玉を詰ましにいって、すっぽ抜けの大逆転負け」を目撃するハメになります。さらに篠田はアマ名人戦でも準決勝敗退。翌年は平成最強戦で松田が準優勝(まあ、これはできすぎだったのでしょうが)。このあとの篠田のレーティング選手権優勝、鈴木守の十傑戦優勝、樋田栄正のアマ王将戦優勝は、もちろん観戦には行けていません。

 このあと私は郷里の熊本に戻り、当然ながら全国大会観戦は難しくなります。それが良かったのか、平成11年に篠田がアマ竜王戦で優勝します。翌年、アマ名人戦の全国大会の時期に、タイミング良く上京していました。すると篠田がベスト4に残ります。「ついにジンクスが破られる日が来るかも」と、かなり期待したのですが、結果は……。

 私が今も趣味のひとつとして将棋を続けているのは、もちろん将棋そのものが好きということもありますが、たぶんに将棋部時代の仲間とのつながりを保つためであるような気がしています。いつか県代表として上京してみんなと酒を飲むこと、いつか仲間の優勝を祝して酒を飲むこと(飲んでばっかりですが)、そんなことをおぼろげに考えながら、しばらくは将棋を指し続けていこうと思っています。



 執筆者注:文中の登場人物について、一部敬称を略させていただきました。ご容赦くださるようお願い申し上げます。

 次の執筆者は、大学は違いますが関東学生将棋の同期で、東京を去るときに送別会もやってもらった西條耕一さんです。あのときのお礼をいつかしなくては、という気持ちはあるんですが、その「いつか」がねぇ……。



(次回は西條耕一さんにバトンタッチ)