リレーエッセーその92

東大に通った3年間

加賀さやか



いま明かされる真実……。
実はワタクシ加賀さやかは、東大に通っていたのです。

今日は『その頃の3年間』の思い出話にお付き合い下さい。

東京都目黒区駒場。
敷地は広く緑もゆたかで、巨大な校舎には歴史のおもむきあふれ、その横にはペンキで塗られた学生運動の立看板が立ち並び、半ノラ猫がたくさん駆け回る、東京大学・駒場キャンパス。

……の、裏門に自転車を止めて、生協の横を通り、駒場寮の隣を行ってさらに別の小さな門までつっきって、時計塔を背に5分ほど歩く。
そうして雨の日も風の日も、十代のワタクシは毎日通学していたのです。つまり『高校へ行く通学路の近道』として(笑)

ありがとう東大!
勝手に自転車置場にしていただけではなく、東大生協の文具コーナーや2Fの書籍部にはたいへんお世話になりました。
建物の外側にあったカップラーメンの自動販売機とテラスは、学校の帰りに、クラスのみんなで利用いたしましたともっ♪
楽しかったなぁ〜。

私の本当の母校は、東大を横切って商店街を上がっていった、駒場エミナースの近くにある【都立芸術高校】(略称ゲーコー)。
一部ではよく知られてる音楽と美術専門の公立高校です。

全校生徒は約250人。
1学年に2クラスしかなくて、『音楽科』が40人で『美術科』が40人。
3年間クラス替えはありません。
教職員は500人ほどいましたから、生徒の倍ですね。
ちなみに、美術科の男子は全体の3分の1。
音楽科の男子にいたっては“1クラスに2人か3人ずつ”しかいませんでした。
(女の子と同化しててパッと見わからないぐらい)
ハーレムかというと……少数派はツラそうでしたけどねぇ。

体育は男女別だったのですが、音楽科のお嬢さんに聞いたところ、
「うちの男の子は、ずっと2人きりでバレーボールやバスケをやってたよ〜」
サミシイですねー。
しかも女の子だって、音楽科のお嬢様がたは
「命の次に大事な手を怪我しては、困りますわ、ほほほ」
と当然のごとく体育をサボり、レッスンに御多忙なため(笑) 部活動なんかもほとんどやりません。
たいていの部員はどこも美術科の人でした。
もちろん、かの【甲子園】なんぞ夢のまた夢。
だって、野球部が3人しかいないんだもん。(男子は全校で40人くらいだし)
三角ベースもできやしません。
予選落ちのみなさん、出られるだけでも凄いことなんですよ〜!
あぁ出場したかったなぁ甲子園を目指して。
ただ万が一にも勝利したら困るんですけどね。校歌がありませんから。(笑)
制服も無くって、校則もごくわずかの学校でした。
【校章を付けること】
【芸術高校生らしい服装を心がけること】
これは↑けっして“高校生らしい”ではないのがポイントで、音楽科のお嬢様方はパステルカラーのロングスカートに白いブラウス、刺繍付の薄手のカーディガンといった、楚々とした可憐な装いが一般的でしたし、我らが美術科の連中は、油絵の具がベタベタ付いた白衣や、オーバーオール、ドテラと下駄と毛糸の帽子、わざわざ入手した学ラン、中学の時のセーラー服、とまるっきり無法地帯。
スキンヘッドの女の子なども何人か(!)いましたよ。
皆さんの高校はどうでした?

でもね、規制が厳しいと色々とうっとうしいことも多かったでしょうが、制服は楽で羨ましい!
毎朝毎朝なにを着るか考えなくていいし、なによりも冠婚葬祭に困らないですものね〜。と、私服学校の悲哀。
校外マラソンなんて、バラバラの体操着(中学時代のジャージ、ブランド物のジャージ、Tシャツにスパッツ、カンフースーツ、などなど)でドタドタと、駒場高校から東大のあたりまで走ったものでしたが、平日の昼間ではハッキリ言って【不審な鬼ごっこの集団】にしか見えません!
あれはお揃いの体操服で走っているから、近隣の方たちも『あら、◎◎高校は体育の時間なのねぇ、大変ねぇ』とあたたかい目で見守ってくれるのです。

校舎は普通の授業をやるメインが1棟と、音楽棟と美術棟。それから体育館に音楽ホールや美術館もあるのが、ちょっと豪華♪
……でも、校庭は無く、プールも無く、売店も食堂も無かったのです(涙)
「売店があっても、人数が少ないからモトとれないし」
と言われてはミもフタもなし。

そういえば、昔の夏は隣の高校のプールを借りて授業していたそうなのですが、ある年の先輩に“紐ビキニの女子”がいたため「もう貸しませんっ!」となった
……という伝説がありましたっけ。やりかねないぞ先輩……。

というわけで、お昼御飯も弁当持参か買い出し。教室にピザの出前をとったこともありました。
先輩には、“モチーフ”のアヒルが毎日生んだ卵を使い、彫刻室(各専門ごとに部屋があるのです)でホットケーキを焼いて食べていた剛の者もいました。
モチーフとして、他にもニワトリと鳩とウサギも飼ってましたが、さすがに毎日のように描いてると愛も湧いて、本体を食べちゃう人はいませんでしたけどね。
(ニワトリが亡くなった時には授業をサボってみんなで葬儀しましたっけ)

と、無いものをあげつつ、クラスにはTVが3台あって、休み時間にゲームなぞをしたり、冷蔵庫も教室にあったので、ソースやマヨネーズを各自常備したり、ジュースなんかを冷やしてました♪ おっ金もち〜♪
……じつは、男子が粗大ゴミを拾ってきて、直して使ってただけなのですけどね。
男子も家庭科をやる東京都の『モデルケース学校』(だから小学校から男の子にも家庭科させるの賛成!)だったので、しょっちゅう教育委員会の視察が入っていたのですが、そこはそれ、ペンキを塗れば立派な【ゲージュツ作品】の出来上がり〜♪
よく見るとコンセントが入ってるんですけどねぇ(汗)

なんて、まだまだ語りたいことも多いのですが、3年間とても楽しかったです。
ですから『東大』と聞くとすぐ、『終わらない放課後』のようなあの頃の甘酸っぱい記憶が強くよみがえります。

同じ日本画専攻のみんなで近所で駄菓子を買い込み、東大生協前のベンチで食べながら遊んだり、真っ赤な猫が歩いててギョッとしたら、血じゃなくて立て看板のペンキが付いてたり、なぜか、東大生とスキヤキを作って食べつつ読書感想で盛り上がったり……。
(このいきさつを話すとさらに長くなるので割愛)
かの有名な【駒場寮】にも、取り壊しの前に入りましたよ♪

あの3年間は、思い出すだけでドキドキする、とても大切な時間なのです。



あ、そういえば当時の芸校に【将棋部】はありませんでした(汗)
(囲碁部もチェス部も麻雀同好会も無かったです。ゲーム系全滅)なんでだろう。
体育会系では、個人競技で女子も出られる空手部だけは盛んで、今でも全国大会の常連のはず。
そして文化系の部活動は、プロを何人か出している漫画研究会がいちばん盛んでした。
なんてったって元々“全校生徒の半分”は漫画が描けますから(笑)
そういえば、園芸部は野菜ばっかり作ってて『百姓部』という名前だったことを今、急に思い出しました。
……変な学校。
あの頃の自分に今のワタクシの状況を教えると、さぞやびっくりするでしょうね。
将棋についてなんて、考えたこともありませんでしたから。

まぁ、あの絵ばっかり描いてた3年間が回り回って、今の将棋イラストレポーターな私を作り出したわけですから、運命って不思議〜。
東大を通って学校に通ってたあの時期が無かったら、私はこうして将棋という面白いゲームや人々には会うことも、その絵を描くことも無かったのですものね。

願わくば、これからも皆様とともに、この縁あった楽しい世界をずっと見守り、応援していけたなら……と思っています。
今後とも宜しくお願いします。



 次は和服のセンスも良い、ステキな船戸陽子さんへ♪



(次回は船戸陽子さんにバトンタッチ)