リレーエッセーその113

白人の名人の夢

Reijer Grimbergen



 子供のころはやっぱりチェスだった。チェスはヨーロッパの文化的なゲームである。特にオランダでは非常に人気があり、世界トッププレーヤーは何人もいる。チェスを毎日勉強して、毎週チェスクラブに通って、毎月トーナメントに参加した。結果はいまひとつだった。

 チェスに段々飽きてきたとき、運命の出会いがあった。1984年に17歳でNijmegen大学に入学して、偶然に将棋クラブを見つけた。オランダにはその時4つの将棋クラブしかなかったので、今でも人生は不思議だと思っている。将棋の一番好きなところは「逆転」だった。チェスでは序盤のミスが大きく響くので、なかなか逆転のチャンスはない。引き分けも多いし、つまらないチェスは何回も指したことある。将棋は持ち駒を使えるおかげで、最後まで逆転のチャンスがある。

 チェスをやめて、将棋にはまった。毎日勉強して、毎週将棋クラブに通って、毎月トーナメントに参加した。結果はよかった。1年間で初段。19歳でヨーロッパ将棋選手権初優勝。そのときの最後の対局は、相手が終盤で大ポカをしての逆転勝ちだった。「逆転キング」と呼ばれたほど、序盤の失敗から逆転勝ちは得意だった。このゲームはいける! 「白人の名人」の夢が生まれた。

 「将棋世界」を読んで、いつ谷川浩司と対戦できるだろうと思いながら正座の練習した。「私にも和服は似合うでしょう」と自信満々のときだった。1990年に初来日。「俺の力を見せてやる」の気持ちで成田空港に到着。結果はひどかった。新宿将棋センターでぎりぎり三段。週刊将棋の取材で斎田晴子さんに完敗。大分で16歳の少年にぼろぼろ負け(あの少年は早咲誠和さんだった)。一番いい将棋は京都で天才と言われていた13歳の少年に勝ったときのもの。やっぱり日本の壁は高かった。

 しかし、「白人の名人」の夢はまだ続いていた。次の目標はアマ竜王戦だった。毎年外国の選手が1人、読売新聞に招待されて、アマ竜王戦全国大会に参加する。私は1992年にヨーロッパ将棋選手権で2回目の優勝をして、1993年にアマ竜王戦に招待された。 「まだ26歳だ、決勝トーナメントまで頑張ろう」。結果は2連敗で予選失格。優勝は菊田裕司さんだった。私より若い。「白人の名人」の夢は消えた。



 その代わりに新しい夢がある。1995年に電子技術総合研究所にSTAフェロー(科学技術庁フェロー)として来所。「名人を作ろう」というのが、新しい夢だ。名人を作るために二つの方法を考えた。一つは人間の思考を勉強して、将棋プログラムを作ること。人間の思考は2001年まで電子技術総合研究所で研究して、そのあとに佐賀大学に移転した。まだ強い将棋プログラムを作ることはできていないが、これからも頑張りたいと思う。

 もう一つの方法は結婚。1999年に日本人と結婚して、子供が産まれたら将棋を教えるという作戦。「白人の名人」ではなく「ハーフの名人」だが、夢は続く。2004年1月29日に子供が産まれました。女の子だった。グリムベルゲン理紗は女流名人になれるでしょう。



 ところで、あのとき勝った京都の天才少年はだれだったか。最近それが分かった。小林裕士さん(現在プロ五段)だった。私のこと、覚えているでしょうか。

 次回ははこだて未来大学でゲーム(特に将棋)を研究されている松原仁さんにバトンタッチ。



(次回は松原仁さんにバトンタッチ)