リレーエッセーその115

人から学ぶ将棋科学

伊藤毅志



 松原さんからこのリレーエッセイのお話をいただいて、結構気軽に引き受けてしまいました。実際書き始めてみると、論文を書くのとは勝手が違って、自分の文才の無さを痛感させられます。一通り書き上げて、この書き出しを書いていますが、徒然草の書き出しのような気分になっています。次の山岸さんに原稿をあげていただいて、せめてこのページのトップが早く私から替わってくれることを祈っています。



自分の将棋と研究遍歴

 は生まれも育ちも名古屋です。生まれてから高校までは名古屋で過ごし、北海道大学に入学して4年間は札幌で過ごし、名古屋大学大学院で名古屋に戻って6年間を過ごして、電気通信大学に勤めることなり、今は東京に在住しています。
 将棋は、小学校時代に親父から教わりました。小中学校の頃は、将棋は学校の休み時間に友達と遊びでやる程度で、中学生の頃までは定跡も知らず、棒銀しか知らない親父にも勝てないくらいでした。愛知の旭丘高等学校に入学し、将棋囲碁部に入部することになり、将棋の世界にのめり込むようになりました。

 高校時代の(っていうか、たぶん将棋人生における)唯一の自慢は、杉本昌隆六段(当時小学生で奨励会員)に平手で勝利したことです。今思えば、私の将棋人生で最も将棋にまっとうに打ち込んでいた時期だったように思います。どういう経緯だったのか覚えていませんが、1日だけうちの高校に板谷進先生が指導に来ていただいた際に、弟子の杉本少年を一緒に連れてみえたのです。そこで、杉本少年がうちの将棋部の3人と三面指しをすることになり、私は勝ったのです。詳しい棋譜は残っていませんが、私が居飛車左美濃、杉本少年は振り飛車だったと思います。それ以降というもの、杉本さんの昇級、昇段を、奨励会の頃から影ながらずっと応援しています(*1)。  旭丘の将棋部は、今思うとお世辞にも強くはなかったと思います。同級生の中島浩雅君(彼は、その後早稲田大学に進学し、早大将棋部に在籍しました)とは、高校時代最もたくさん対局した棋友です。先輩も個性豊かな方が多く、私の将棋を形成した時期だったと思います。高校時代の2つ上の先輩には、詰め将棋作家の岡本正貴さんがいらっしゃいました。2年上の先輩ですし、殆ど指し将棋をなさらない先輩だったので、あまり指した記憶はありませんが、長編の詰め将棋を瞬時に解いてしまう速さには驚いた記憶があります。

 北海道大学で、またも将棋部に入部しましたが、当時の北大将棋部のあまりのレベルの高さ(*2)の前に、まっとうには将棋では戦えないことを思い知らされ、いつしか裏将棋部(*3)へと、将棋人生裏街道を歩んでいくようになりました。フェアリー将棋(*4)の面白さを覚えたのもその頃だったと思います。今思うと、北大時代はかなり強い人たちに囲まれていたので、もう少し真面目に将棋に取り組んでいたらという後悔の念もあります。  教養部から学部に進んで、安西祐一郎先生(現在の慶応大学塾長)に出会い、安西研究室で「認知科学」に傾倒していきます。私の人生で、安西先生との出会いは大きく、今の研究の方向性を決めたのはこの先生との出会い無しには語れません。北大裏将棋部の世界を垣間見ながら、4年で卒業できたのも、学部に進んで、「大学の授業が面白い!」と思えたことが大きな要因だったと思います。その後、安西先生が慶応大学に移られたこともあり、大学院は名古屋大学大学院に進学します。大学院時代は、杉江昇先生(現在名城大学教授:この春定年になられます)と大西昇先生(現名古屋大学教授)のご指導を受けることになります。大学院時代は「図を用いた幾何の証明問題」を題材に「人間の問題解決過程を説明する認知モデル」というテーマで研究に没頭するようになり、将棋からはしばらく離れていました。

 電気通信大学に就職して、北大将棋部時代の先輩である仲島厚志さんの影響もあって、パソコン通信(*5)の将棋ネットを始めるようになり、また、将棋をするようになりました。そこでも、既に普通の将棋に限界を感じていた私は、フェアリー将棋のコーナーで通信でも変則将棋で楽しんでいました(*6)。その後、通信で知り合った将棋仲間に誘われて、西新宿のスナック「あり」に入り浸るようになり、将棋の輪が広がっていきました。今では、「あり」で集まった仲間と社団リーグに参加して、将棋を続けています(*7)。  以前から、「将棋の問題解決過程を研究したい」という願望はあり、電通大に来て、少しずつ将棋を題材とした研究を始めていたところ、松原さんと出会って、共同研究を行うようになりました。松原さんのエッセイにもあったように、ここ数年は、将棋を題材にして人間の直観的な問題解決、熟達化に関する共同研究をしています。



人間に学ぶ

 リレーエッセイで続いているライエルさん、松原さんの研究のモティベーションである「強いコンピュータ将棋を作る!」という目標は、私にもありますが、私の研究の方向性は少し違っています。私は、「人間はどうやって将棋という難しいゲームを考えるのか?」「どうやってこの複雑なゲームを学んでいるのか?」というところに興味があります。単に強いプログラムを作るだけなら、別に人間に学ぶ必要は無いかも知れません。カスパロフに勝利した「ディープブルー」は、探索アルゴリズムの効率化と超並列計算をするハードウエア(*8)まで作って、グランドマスターに匹敵する強さを実現しました。ただ、この勝利は、マイケル・ジョンソンに対して自動車で勝利したようなもので、人間がいかにして速く走るのかというメカニズムの解明とは違う次元での勝利と言えるでしょう。

 現在のコンピュータ将棋の研究の多くは、チェスの研究で見られるような形の勝利を目指していると言えます。もちろんそれも一つの勝利でしょうが、人間がどうやってこの難しいゲームを理解して、どうやって強くなっていくのか?という人間のメカニズムの解明というのも、認知科学の分野では非常に興味のある研究分野です。私はそこに興味があります。探索手法の進歩とコンピュータの高速化で、今後もどんどんコンピュータ将棋は強くなっていくでしょう。しかし、私は、そこに少しでも認知科学的視点からの寄与をしたいと考えています。

 ここ数年、松原さんと共同で人間の将棋を考えるメカニズムについて、色々な視点から分析をしています。アイカメラという人間の視線の動きを捉える機械を用いて、将棋の局面を記憶する時、次の一手を決定するまでに人間はどこを見ているのか?という研究を行ってきました。また、様々なレベルの被験者に思考過程を発話させて、その内容を分析する手法(*9)を用いて、調べてきました。わかってきたことは色々ありますが、ここでは、その一つをご紹介します。

 エキスパートになると局面をその局面だけでなく、そこに至る経緯を含めて認識できるようになり、先を読むときに「流れ」の中で局面を捉えるようになってくるということがわかってきました。このことは、ある程度熟達化してくると自明のことのように思われますが、現在のコンピュータ将棋では考慮されていないことです。現在のコンピュータ将棋では、一手進むとそれまでの思考はキャンセルし、新たに局面を評価して次の一手を探索していくということをやっています。善悪は別にして、人間はこのような「流れを読む思考(*10)」が出来るお陰で、コンピュータがするような膨大な先読みをしなくても直観で次の一手が閃くのだと考えられます。

 最近は、このエキスパートの思考過程を模倣するコンピュータ将棋プログラムの開発も始めています。強さを求めることを目的としていないので、極めて弱いプログラムですが、人間の思考過程を調べることから、「将棋」を科学している研究者がいることも知っていただけたら幸いです。いずれ、トッププロ棋士の思考のメカニズムを明らかにして、人間が考えるように考えるコンピュータを実現したいというのが私の夢です。

 将棋は人間同士で対局するゲームです。こうして自分の遍歴を思い返してみると、将棋を通して多くの棋友と対戦し、将棋の研究を通して多くの研究者や被験者に出会うことが出来たのだと感じます。この人と人の出会いこそ将棋の楽しさであり、醍醐味だと思います。どんなに人間の思考のメカニズムが明らかになったとしても、この人と人とのつながりがある限り将棋というゲームは永遠でしょう。



*1)いつか杉本さんが、タイトルを取って、「あのタイトルホルダーの杉本さんに勝った事あるんよ!」と吹聴するが私のささやかな楽しみだったりする。杉本さんは覚えているのだろうか? 一度聞いてみたい。

*2)2つ上の先輩には、学生名人になった仲島厚志さんがいたが、当時の北大将棋部では、仲島さんだけが図抜けていたわけでなく、仲島さんクラスの人が結構いた。ちなみに、私は北大将棋部ではかなり弱い方だった。

*3)「ゲーセン→居酒屋→雀荘→ゲーセン……」の無間地獄を彷徨う北大将棋部のもう一つの世界。通常このサイクルに入ると、留年は当たり前、卒業も危うくなると噂されている。

*4)世間では「変則将棋」などとも呼ばれる。衝立将棋、安南将棋、王手将棋などの通常の将棋のルール以外のルールでプレーするゲームのこと。

*5)当時、武者野勝巳先生の「駒音ネット」他、複数の将棋ネットがあって、昔の郵便将棋のネット版みたいなものが流行っていた。大体複数の対局を並列で進めて、1日1手ずつ進めて、2、3ヶ月で1局の将棋を指すという優雅な時代だった。

*6)フェアリー将棋の仲間は、月に一回ぐらいのペースで今は無き「渋谷高柳道場」の2階に集まって、衝立将棋、安南将棋、王手将棋などの将棋を指して、定跡の研究を行ったりしていた。機関紙も発行しており、かなりマニアックな世界であった。

*7)「あり」チームには、次にバトンタッチする講談社の山岸浩史さんやお話の中に出てくる仲島厚志さん、東大将棋部OBの高澤恒夫さん、ミュージシャンの山本直喜さんなど、個性的なメンバーが集まっている。私はそこの第二チーム「なし」で社団戦に出場している。

*8)色々な本で既に書かれていることであるが、ディープブルーはチェス専用の計算機で先読みを行っている。足し算は出来ないくせに、ポーンの動きはものすごく高速で計算できるというようなチェス専用マシンを並列につなぐことで、1秒間に2億手も読むことを可能にしている。

*9)この手法は、発話プロトコル分析と呼ばれ、認知科学ではよく用いられる手法である。考えていることをすべて言語化させ、言語化されたデータを時系列的に分析して、思考過程を調べるというものである。

*10)我々はこの思考のメカニズムを「時間的チャンク」という概念で説明しようとしている。チャンクとは空間的意味的な塊を表す認知心理学用語で、人間が熟達化するにつれて、ある事柄を意味ある塊として捉えることが出来るようになることが知られているが、その塊のことをチャンクと呼ぶ。



 次は、「あり」で将棋を通して知り合った山岸浩史さんにバトンタッチします。「将棋世界」の「盤上のトリビア」連載1回目面白かったです。エッセイも期待しています(と軽くプレッシャーをかけてみたりして)。



(次回は山岸浩史さんにバトンタッチ)