リレーエッセーその122

言刃の与えるもの

崎浦正隆



 「H」は化学記号で「水素」を意味するのは万国共通であるという。ある海外旅行した人は水が飲みたいという事を現地の言葉で伝えられないために「H2O」と書いて示したら一発で水が来たそうである。この記号はH2SO4(硫酸)、HCl(塩酸)、HF(ふっ酸)等の「酸」のつく化合物によく使われる。「つまりHこそ酸の素、すなわち酸素(O)であり、この記号の命名を考えた先人が間違えて翻訳したんだろう」。Hという記号に込められたもう一つの意味という事で、中学時代、化学の先生の一番印象に残っている話である。

 最近印象に残った漫画で「コンデ・コマ」というグレイシー柔術の開祖、前田光世の物語がある。
 当時は「試合」は「死合」と表記(本文も一字ずつ入力しました)されていたという話を聞いた。「おれは試合がしたい」と言う主人公の言葉は、昔は命のやりとりを意味したガチンコ勝負だったらしい。それを柔道の開祖、嘉納治五郎氏がスポーツの振興に好ましく無いという理由で「試合」と表記を変更したという。
 「試合」という言葉に昔込められていたもう一つの意味は、嘉納氏の意向通りにその面影を完全に消して現在に至っている。

  「言葉」という字に隠された真の意味は、実は「言刃」ではないのかと思う時がある。子供が小さい頃、「歌が下手だね」と言ってしまうと、その子は大人になっても二度と人前で歌えなくなってしまう事があるという。場合によってはその中に隠れている「刃」によって人は傷つけられ、二度と立ち上がれない心の傷を負ってしまうのだろう。
 将棋を指す中で、色々な人々から「言刃」を頂いてきた。当時の私はその「言刃」に与えた真意を理解できる余裕はなく、意味無い反抗をくりかえした。今現在においてもその一字一句は正確に覚えている。



 「勝敗券書いてもらおうか」

 大学将棋部に入りたての頃、連盟道場で1級だった私は、先輩達のおもちゃであった。  10連勝する事を一日の目標にされ、帰りに言われた言葉である。あまりに一方的な実 力差に途方にくれそうになったが、自動負けましたマシーンと化した私は、手が勝手に 駒を並べ直すのを止められなかった。



 「お前そんな指し方していると友達なくすぞ」

 得意戦法がなく、ただひたすら指していた大学1〜2年生の頃、先輩方の振り飛車に何度も痛い目に合わされていた時に考えついた対策は、「振り飛車を指させない事」だった。つまり相振り飛車にしてしまえば多少味が違うものの、自分の好きだった相居飛車と同じ感覚で指せるのではと、相手が居飛車ならこちらも居飛車、振り飛車なら振り飛車と言う作戦でたまには勝つ事はできた。根本的な発想は「逃げ」以外のなにものでもなかった。先輩の指摘は上記の言刃の意味とともに、「強くなれないぞ」という事も含められていたのかもしれない。しかし当時の勝ちに飢えた自分は先輩の指摘などお構いなしで、この作戦を採り続けた。強くなるための大事な時間を、この発想のために浪費してしまった事に卒業してからやっと気づいたのだった。



 「大丈夫だよ。期待してないから」

 初めて関東大学将棋団体戦に当て馬でなく、選手として出た(と思う)3年生の春。早稲田戦、慶応戦で惨敗した後、先輩に言われた。もちろんやさしさからでた言葉ではあり、この先輩に対する悪感情は一切無い。しかし聞いた当時は言刃としか受け取れなかった。
 努力は一生懸命やっている。しかし、相手はそれをあざ笑うように勝っていく。弱い者の努力が強い人間の才能に踏みにじられる戦いの場所であった。もちろん、当時の大学将棋の猛者に刃がたつわけがない。わかっていても、悔しくて悔しくてたまらなかった。
 いったい何が彼らと自分との差なのか……。当時の自分の弱さは誰に聞いても「おまえが弱いからだ」という表現で、具体的にどう強くなればいいのか方法がさっぱり分からなかった。



 「あと50回トーナメントに出れば優勝できるよ」

 自分なりに強くなる方法としてたどりついたのは将棋道場の賞金トーナメントだった。強い人が、ただ一度だけ相手してくれる真剣勝負。初めて将棋道場の賞金トーナメントで決勝まで進み、惨敗したとき、相手の五段に浴びせられたとどめの一言である。もちろん敗戦は実力差であり、全くの自己責任である。しかし、この言い草はないだろうと思った。死にかかっている相手にはとどめを指す、勝負師の本能なのだろうか、将棋の修行の過程では何度このような言刃を浴びせかけられたか分からない。それでもやめなかったのは言刃を浴びせ掛けられるたびに体中からほとばしる血を抑えられなかったからに違いない。「畜生!」という感情でなく「血がたぎる」という表現がぴったりくる。この感情は今でも自分の体の中に残り、外に出るチャンスをうかがっている。



 「こんな筋の悪いやつに負けたくないよ〜」

 道場通いの効果が出てやっと結果が出始めてきた4年生の頃。当時歯が立たなかった強豪の方々にも、少しずつ入るようになり、負かした方からよく聞かれる言葉である。

 とにかく、頑張りまくり、一瞬のスキをついて逆転を伺う(20代の頃は多少なりとも終盤の方が強かった)。但し、序盤から中盤にかけての構想力は稚拙で、無知、矛盾、非効率の塊だった。対戦相手も負けたけれどこういう言葉を吐かなければ収まりがつかなかったのだろう。30代になり、多少なりと序中盤の構想や内容に心が行くようになった今でもこの言刃は心に焼き付いている。そして、定跡を外れたときに露呈する筋の悪さも当時のままである。



 一つ言えるのは、自分の人生の中では学業でも仕事でも、このような厳しい言刃を受けた記憶がないという事である。
 もちろん大なり小なり受けたのであろうが、今、自分の中で強い印象として残っている物はほとんどない。多分、自分をうまくだましながら咀嚼できたのだろう。その代わり、学業でも仕事でもなかった遊びであるはずの将棋だけは今まで鮮明に言刃を言われた場所、光景を思い出せるのは、自分にとって何者にも替えられない存在になっているからに違いない。県代表になるまで、いやもう少し大風呂敷を広げてアマチュア参加棋戦で活躍し、プロと覇を争う存在になるまで将棋は絶対にやめない。

 所詮夢というなかれ。ただの初心者だった自分が、アマ有段者までたどり着けたのも大学将棋でレギュラーになる夢を描き続けた事から始まった。実現するかしないかは別としてまず夢を描かなければ何も始まらない。そう、夢しか実現しないのだから……。



 自己紹介が遅れました。明治大学将棋部のOBで崎浦正隆と申します。現在、某メーカーに勤める30代後半の会社員です。リレーエッセーはいつも将棋パイナップルのHPを見る時の楽しみです。このエッセーを読むたびに、大学将棋部でのほろ苦くも忘れられない出来事を思い出し、本文を書かせて頂きました。

 次の執筆者は結構珍しい苗字のはずなのに、将棋大会で名前を呼び間違えられる事はまずありえないと思われるアマ将棋界のスーパースター、そして、大学の後輩の清水上徹君にお願いします。よろしく!



(次回は清水上徹さんにバトンタッチ)