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リレーエッセーその134 勝ちたいと思うことの意味 勢田朋来 |
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序章 秋風 「もう引退だ」 本気でそう思った。これまで何度か同じ言葉を発したことはあったが、それが本心であったことはなかった。自分のふがいなさに対する怒りをごまかす、自嘲的な冗談だったのだ。しかし、今回はそうではなかった。恐れていた日が、ついに訪れてしまった。 昨年の11月3日。朝日アマ名人戦近畿大会。2連敗で予選落ち。ここ数年、予選だけは一応突破していたのだが、今回は何もできないまま終わった。まるで将棋にならなかった。 以前は、睡眠不足で大会に臨んでも、相手と盤をはさめば気合が入った。数ヶ月将棋から離れていても、負けたら必ず悔しい思いを味わった。それが今回は違った。 「勝ちたい」 私が失ったものは、その強い意志。 第1章 覚醒 「勝ちたい」 生まれて初めて本気でそう思ったのは、高校2年生の時だった。高校竜王戦県大会の本戦1回戦、ノーマークだった相手に時間切れ負け。一度は優位に立ちながら、穴熊流の粘りに屈した。 当時の私は、自分が思っていたよりもずっと弱かった。前の年に高校選手権、竜王戦の県予選でともに準優勝したことで、自分が強いと錯覚してしまっていたのだ。 私は落ち込んだ。しかし、将棋をやめようとは思わなかった。このまま何もできずに去るわけにはいかなかったのだ。 「勝ちたい」 そのためには、自分が変わることが不可欠だった。高校県代表にはなれるだろうと高をくくっていた1年間を取り戻すことはもうできない。 それから約1年にわたって、私は試行錯誤を続けた。まず振り飛車党から居飛車党に転向した。自分の通う高校に将棋部がなく練習相手が少なかったため、積極的に他校に指しに行った。 また、他校との交流から団体戦の存在を意識するようになった。校内からメンバーを募り、非公認団体を結成したりもした。 結局、全国大会出場という目標は達成できなかった。しかし、この1年は私にとって非常に有意義な1年だった。大学入学後の諸活動のための下地が、この時期に作られたのである。 第2章 苦闘 「勝ちたい」 大学に入っても、思いは変わらなかった。関西地区の大学対抗の団体戦(一軍戦)の存在は入学前から知っていて、その舞台で戦うことにあこがれていた。ただ、そう簡単に一軍戦で活躍できるとは思っていなかった。強い先輩が数多くいるだろうから、レギュラーになるのも容易ではあるまい。先輩に揉まれて強くなるつもりでいた。 だが、部の実態は私の予想とはかけ離れていた。初めての一軍戦、我が神戸大学はB級3位。私は当然の如くフル出場させられた。なにしろ、7人制の団体戦なのに、会場に集まった部員は8人しかいなかったのだ。 初めのうちは、大会に出るたびにチームの弱さを実感した。団体戦はメンバー集めにも一苦労、個人戦はエントリーがわずか3人ということもあった。結果は言うまでもない。 自分の入学前に関しては何の責任もないから、恥じることは何もないのだが、当時の私はそうは思えなかった。神戸大学が弱いこと、そして他大学やOBにそう思われていること、それは屈辱だった。そして、その状態から脱出するためには、強くなって大会で勝つしかなかった。 「俺達みんなで勝ちたい」 夏休みを迎える頃には、自分の思いがそう変わっていた。目標は1つしかなかった。一軍戦A級昇格。当時の自分にとって、何よりも大切なことだった。 昇級を果たすためには、チームが変わる必要があった。そして、自分が変えていかなければならないと思った。高校時代の経験から、自分にもそれなりのことができるという自信はあった。このチームを勝てるようにすること、それは非常にやりがいのある仕事のように感じられた。 では、勝つためにどうすれば良いのか。私の出した答えは「外に出ること」だった。部員が少ないから、部内で指せる相手は限られている。いつも同じ相手と指していても強くはなるだろうが、大会で勝てるようになるためには、部外で将棋を指すことが不可欠だと思った。他大学や高校、高専との交流は学生時代を通じて私の活動の1つの大きな柱となったが、その当初の目的は自分達が強くなることだったのだ。 もちろん、自分自身が強くなりたいという思いもあった。しかし、自分自身はレギュラーの1人に過ぎず、一軍戦では全体の7分の1でしかない。自分が強くなるための努力よりも、チームを強くするための努力を優先するようになったのは、自然なことだった。 「一軍戦で勝ちたい」 その一心で、私は戦い続けた。将棋部の発展、強化に繋がると思ったことは何でも実行に移した。1回生の冬には部長に就任し、リーダーとしてチームを引っ張った。そのスタイルはまさに「独裁」だった。何をするにも、まず私が企画案を出して同意を求めるという形だった。 ただ間違いないのは、仲間も「勝ちたい」という思いを抱いていたことだ。積極的に活動に参加し、常に勝つために全力を尽くしていた。一軍戦への思い入れには人によって温度差があったが、ほとんどの部員が試合会場に足を運んでくれた。 「全国大会で勝ちたい」 大学将棋に慣れてきた私は、1つの大きな夢を見た。王座戦という存在を意識するようになったのだ。自分の在学中でなくても良かった。在学中に王座戦に出ることは不可能だろうが、将来に向けて土台を作ることはできるのではないか。 私が考える土台とは、一軍戦でA級に定着することだった。神戸は強いと認められることが大切だと考えたのだ。それによって強豪校とのパイプも太くなるだろうし、高校生に対するPRにもなるだろう。そこまでの仕事は自分達の代でしたいと思っていた。 「勝ちたい」 思いはますます膨らむばかりだった。いつの間にか入部から3年が過ぎ、2年間務めた部長職も後輩に譲っていた。その間に関西個人戦でベスト8に入る僥倖はあったものの、最大の目標は達成できないでいた。そして、私にとって7度目の一軍戦が訪れた。 第3章 充実の日々 「絶対に勝ちたい」 これほど強く思ったことは、それまでなかった。そして、今後もないだろう。B級の全勝同士、事実上の昇級決定戦となった、関西学院大学との対決。 相穴熊から私が優位に立ったが、相手の粘りに手を焼いていた。焦りを覚え始めた頃、スコアが3−3であることを知った。必勝だった1人がトン死を食らったのだ。 ともに苦しんできた仲間達への信頼は、自分の甘えにつながっていた。自分が負けても大丈夫だろうという思いが、心のどこかにあったのだ。動揺した私は悪手を重ね、形勢は一気に逆転した。 しかし、これまでの苦闘の蓄積と仲間達の奮闘が、私に粘る気力を与えてくれた。最後の最後、刀折れ矢尽きた私が簡単に受かる詰めろをかけた時、相手は詰まない玉を詰ましにきた。3年間渇望してきた1つの白星が、私の、そして神戸大学将棋部の手中に収まった。 将棋の内容としては最悪だった。しかし、死力を尽くして戦い勝利をつかんだこの将棋は、生涯忘れ得ない記念すべき1局である。 「勝ちたい」 悲願の昇級を果たした後も、私は同じ思いを抱き続けた。その夏には西日本大会団体戦の選抜メンバーに選ばれ、他地方のチームメイトとともに戦った。 わが選抜Cチームは、連敗街道を突き進んだ。初日は3連敗、2日目も3連敗。このチームもそれなりに粒揃いではあったが、飛び抜けた力の持ち主はいなかった。したがって棋力に差のない相手との対戦が多くなるのだが、そうなると急造チームのもろさが出る。自分の所属するチームへの思い入れは、勝負への執念となって現れるものだ。 私は落ち込んだ。そして悩んだ。たった1日でできることは何もなかったが、それでも悩んだ。ただ、チームのことを想うのみだった。このままでは終われない。このチームでなんとしても勝ちたい、強くそう思った。きっと、他のメンバーも同様だったに違いない。 それが良かったのだろう。最終日の初戦こそ敗れたが、その後2連勝でチームは最下位を脱出した。2−2で残った最後の一局は、選抜C全員で固唾を飲んで見守った。皆の心には、3日間戦ったこのチームへの愛着が芽生えていたのだろう。得がたい経験とすばらしい思い出を手にすることができた、充実した大会だった。 「勝ちたい」 ところが、その思いは少しずつ薄れていくことになる。不本意ながら学生生活は当初の予定より幾分長期化し、学生将棋の世界に長くとどまることになったのだが、この期間は大会で結果を残すことができなかった。一軍戦はB級に逆戻り、その他の諸大会も平凡な成績に終わることがほとんどだった。 既に選手としてもリーダーとしてもそこそこの実績を残し、勢田の名は関西学生棋界に広く知れ渡っていた。だから、目前の1局に負けたところで、自分やチームに対する周囲の評価に大きな影響はなかった。それが、闘志に陰りを見せる原因になったのではないだろうか。 一方で、交友関係はこの時期に大きく広がった。高校の大会で知り合った選手が大学に進学するなどして、それまでの自分の活動の中でできたいくつかのネットワークが一気につながり、学生大会に行けば半分以上が顔見知りという状態ができていた。楽しい思い出を数多く残した時期だった。 卒業するとき、何も未練はなかった。一軍戦に情熱を燃やしていた頃の私とは違う私がそこにいた。それが自然なのだと自分を納得させ、私は学生棋界を離れた。 第4章 愛すべきもの 「勝ちたい」 そう強く思っている人が好きだ。棋力に関わらず、将棋で勝つために情熱を燃やす姿には心を動かされた。勝敗が明らかになった時に選手が見せる表情は、私の目頭を熱くした。そして、彼らと同じ世界に身を置いていることを誇りに思った。 自分が出場できない大会にも何度となく足を運んだ。特に、高校選手権の全国大会には毎年のように顔を出した。顔見知りの選手の応援や神戸大学将棋部としてのスカウト活動という意味合いもあったが、熱い戦いを見るのが好きだったのも大きな理由だった。 学生名人戦にも1度だけ行った。神戸大の同期で長くともに戦ってきた鈴木良太君の晴れ舞台を見に行くためだった。その夜は麻雀を打った。関西だけでなく関東や中部の選手もいて、皆で楽しいひと時を過ごした。 王座戦も見に行った。そして泣きたくなった。死力を尽くして戦う選手たちの姿と、自分がこの場で戦えない悔しさと。見るだけではあったが、たいへん充実した3日間だった。 「こいつらに勝たせたい」 活動の中で、特に若い世代との交流に強い関心を持つようになった。相手が誰であったとしても、話せることはたくさんあった。一軍戦など関西学生棋界のシステムや現状、さらには自分なりの将棋観、自分なりのキャンパスライフなど。 特に、地元・奈良の高校および高専との交流は、私の活動の1つの大きな柱となった。母校の郡山高校では、井上奈智君(現近畿大)が全国大会に2度出場する活躍を見せ、次いで清水智弥君(現立命館大)らの尽力によって将棋同好会が結成された。 今も、高校の県大会にはできる限り顔を出すようにしている。そして、嬉しいことに、私より後に奈良県高校棋界を巣立っていった若手OBも毎回のように来てくれている。高校も大学もバラバラだけれども、年に何度か同窓会のように顔を合わせる彼らは、私にとってかけがえのない存在であり、愛すべき親友たちである。 第5章 花火の如く 「勝ちたい」 久々に心の底から思った。昨年8月、近鉄将棋まつりの早指しトーナメントの決勝に勝ち上がった時のことだ。10年近い棋歴で1度も経験がなかった優勝、その千載一遇のチャンスが訪れていたのだ。大会の規模やレベルは問題ではなかった。優勝したという事実が欲しかった。このチャンスを逃すと、生涯優勝できないような気がした。 相手の四間飛車に私の居飛車穴熊。中盤で不利になったが、懸命の食い付きが功を奏した。一番最初に賞状を受け取るのは初めてで、その時は照れのほうが先行していたが、帰りの電車の中で喜びがこみ上げてきた。 同じ頃、将棋倶楽部24では神戸大の現役部員と若手OBのリーグ戦が行われていた。こちらも好調で、9月下旬の最終戦まで優勝の可能性があった。最後は力及ばず、直接対決に敗れて3位に終わったが、悔しい中にもそれなりの満足感はあった。 どうやら、私はここで燃え尽きてしまったらしい。その後は24でもほとんど勝っていない。 終章 勝ちたいと思うことの意味 「勝ちたい」 そう思うこと自体に、さして意味はない。勝ちたいと思ったから勝てるというような甘い世界ではないし、私のレベルでは少々勝ったところで社会的・経済的な影響は全くない。 私自身、元来は淡泊な性格である。少しでも得をしたいとか、名誉ある地位に就きたいとか、そんな欲求はない。将棋に関しても、初めて大会に出た高1の頃はそうだった。 ただし、精神的充足に関しては、私は人一倍強い欲求を持っていた。人並み外れて喜怒哀楽の激しい性格は、勝利の快楽と敗北の苦痛に対して非常に敏感であり、周囲の目に対する意識も非常に強いものがあった。勝つことが周囲の評価につながり快楽を増大させること、負けたらその逆であること。常に心のどこかでそれを意識していたのだ。 「勝ちたい」 私にとって、それは「精神的に満たされたい」という意味だった。だから、精神的苦痛をさして伴わない敗北は、別に構わなかった。例えば日常の部内での対局では、あっさり負けることも少なくなかった。 一方で、大切な対局の時は自分を追い詰めるほどに気合を入れていた。リーダーになった以上、周囲が勢田という男を評価する基準は、チームの成績である。だから、団体戦の勝敗を分けそうな対局は、食事も全く喉を通らないほどのプレッシャーを感じていた。 それは、私の選手としての適性の低さを示してもいた。プレッシャーを感じつつも、相手が誰であるか、チームの状況はどうか、この対局の結果が周囲に与える影響はいかなるものか、対局中もしばしばそのような雑念が頭をよぎった。そのために最善を尽くせなかった敗局はいくつもある。 しかし、私はそんな自分を背負って戦うしかなかった。このスタイルを変えたら、勝ちたいという強い意志がなくなってしまうのではないか。自分が自分でなくなってしまうのではないか。それが怖かった。 「勝ちたい」 そう思い続けたから、今の自分がある。アマ大会に行けば必ず誰かに声をかけられる。今も、将棋を通じて知り合った友人から麻雀の誘いがしばしば来る。そう、大学入学当時は全くの無名選手だった私が、いつの間にか広い交友関係を持っていたのだ。 勝利にこだわらなければ、精神的苦痛はない。しかし、それで私は成長できただろうか。将棋を通じて得た幾多の経験、関西だけでなく全国各地に広がった交友関係、全て私の「勝ちたい」という思いがなければ手にすることはなかったはずだ。 「勝ちたい」 そう思うこと、それは目に見えない財産を手にするための第一歩だった。高2から大学卒業までの将棋にかけた青春は、本当に充実した日々だった。高2のとき運良く高校県代表になれていたら、私はどうなっていただろう。全国強豪との差を痛感し、自分の限界を感じて将棋をやめていたかもしれない。 あの日負けたことが、精神的苦痛を覚えたことが、そして勝ちたいと思ったことが、私に大きな財産をくれた。勝ちたいと思うこと自体に意味はなくても、それで得た見えない財産は私にとってかけがえのないものであり、これからの人生においても必ず役立ってくれると信じている。 本稿を書くにあたって、学生将棋関連の多くのサイトにアクセスし、日記等のバックナンバーに目を通した。熱く戦っていたかつての自分、今は交流もない幾多の人々を思い出し、目に熱いものを感じることもしばしばだった。この世界に身を置き、戦い続けたことに、一片の後悔もない。 淋しさもある。今の自分は、残念ながら戦える状態にない。勝つために最善を尽くすだけの気力のない者が大会に出場するのは、相手に対して失礼であろう。当分の間は個人戦には出場しないつもりである。 しかし、将棋の世界との関わりを絶つつもりはない。自分を育ててくれたこの世界に感謝しているから、なんらかの形で関わりを持ち、その発展に貢献したいと思っている。 そう、自分が将棋を指せなくても、できることはある。後進の育成である。長く世話になった高校・大学棋界への恩返しとして、1人でも多くの少年少女に伝えたい。将棋の楽しさや奥深さ、そして勝ちたいと思うことの意味を。 次の走者は、名城大学の松本健太郎君。 遠く離れた名古屋の地で、同じ夢を見て、団体戦に情熱を燃やした男。
(次回は松本健太郎さんにバトンタッチ)
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