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リレーエッセーその153 この人と出会う76歩34歩 多田佳子 |
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2004年度の将棋大賞表彰式の式典で、思いがけず、昇段者代表として挨拶する栄にあずかりました。その原稿を紹介します。 昇段者代表挨拶 日本将棋連盟創立81周年。盤寿という記念すべき年に昇段というご褒美をいただきました。ありがとうございます。 女流棋士制度が誕生したのは30年前。第1期生は6名でした。 30年たった今では、女流棋界も、男性棋士と互角に戦うトップ女流棋士もいるほどになりました。数もほぼ10倍の50数名になります。 毎年、女流棋士との親睦将棋会なども開催して、普及活動にも力を合わせて貢献しています。 私自身もこれまでの人生の約半分を女流棋士として過ごし、対局のほか、女性教室や、NHK学園、文化センターなどの将棋教室の講師も体験させていただきました。昨年の秋、引退しましたが、将棋がとても好きで、30年間過ごした中で、思いがけない出会いがいくつかありました。 そうしたさまざまな将棋との出会いの中で、忘れられないのが、亡くなられた原田泰夫先生とのご縁です。原田先生の弟子の近藤正和君を奨励会に入る前の小学校6年生のとき、1年ほどわが家にお預かりしたことがあります。 そんな近藤正和君が、奇しくも同じ今日、勝率一位賞、連勝賞の2部門で受賞しました。原田先生もとてもお喜びになっていると想像し、私も感激しています。 私は色紙に、『この人と出会う76歩34歩』と書くことがあります。 人生の喜びは三つあると言われています。 第一は創造する喜びです。第二は感動する喜びです。第三は出会いの中で生まれる喜びです。将棋は、最も知的なゲームであり、味わい、感動する芸術でもあり、出会いの喜びもあります。この三つの喜びをすべて持っている最高の文化活動です。 このたびの四段昇段の栄誉に感謝し、これからも、将棋を通して生まれるご縁を大切にしたいと思います。ありがとうございました。 近藤正和君の実家は良寛さんの里・柏崎です。ご両親は将棋を全く指さないのですが、将棋好きの正和君を喜ばそうと、お母さんは、むずかしい詰将棋を出題して、一題解くとご褒美として、十円貰えたそうです。子どものときのコンちゃんは、十円が欲しいというより、十円渡すときのお母さんの嬉しそうな笑顔が見たくて、詰将棋をどんどん解いたそうです。誰も知らない「ちょっといい話」を紹介しました。 将棋が取り持つ縁で結婚した夫・多田哲朗には、「川柳人生論」の著作があります。米長さんが念願の名人位をとったときの読み物を著作から転載します。 「時は今あなたの好きな王手飛車〜49年の非を知る・50歳名人の誕生」 時は今あなたの好きな王手飛車 哲朗 プロの将棋では「王手飛車をかけたほうが負ける」ともいう。天才同士が勝負を争う世界で、50にして頂点を極めた男の物語である。 第51期将棋名人戦で、挑戦者・米長邦雄九段は中原誠名人を4勝0敗で降し、悲願の名人位を獲得した。 米長が名人位に初挑戦したのは1976年。名人位に挑戦すること7回にして、将棋界の頂点に立った。満50歳の誕生日が目前という史上最年長の名人位獲得でもあった。…(中略)… 米長邦雄九段はこれまでタイトル獲得数18、優勝16。将棋における天賦の才能は木村義雄、大山康晴、中原誠、谷川浩司などの歴代名人に遜色なく、むしろ凌駕するとさえ見られていた。しかし、将棋界最高位の名人位だけは、これまで手が届かなかった。 1993年4月、7回目の挑戦者になった米長九段に、将棋ファンから激励の手紙が数多く寄せられた。なかでも感激したのは、母校の山梨県・増穂小学校から心づくしの千羽鶴が贈られたことだという。4局目を前に、米長九段は手紙を母校の後輩に書いている。 増穂小学校の皆さんへ この度は心のこもった贈り物を本当にありがとうございました。一羽一羽の鶴から励ましの声が聞こえてくるようで、大いに元気づけられます。 幸いにも3連勝のスタートになりましたが、これからの1勝は、それまでの3勝よりも大変ですので、これから第1局が始まるつもりで頑張りたいと思っております。 私は名人戦には6回挑戦して全て敗れ去りました。今期が7回目ですが、他のタイトルは全て手中に収めましたのに、これだけはどうしても取れませんでした。 今期の結果はどうなるのか、神様にしか分からない事ですが、私の自慢できることは負けた後で又起き上がったことにあります。かつて鑑真和上は5回の渡航に失敗され、6回目にしてようやく日本に渡ることが出来たのです。 人生にとって一番大切なのは、失敗や挫折の後で、どのような努力をするかにあると考えています。 皆さんも一生懸命勉強して下さい。私も頑張ります。 米長邦雄 米長九段が失敗や挫折のあとで、どのような努力をしたか。その一つは若手の棋士の研究会に積極的に参加して、最新の研究成果を吸収したことであった。なかでも若手随一の勉強家・森下卓七段(当時)には「森下先生」と呼んで師事したほどであった。…(中略)… 勝負の世界で勝敗を分けるものは何か。過日、森下卓七段の講演を聞く機会があった。 将棋は「心・技・体」の総合的な戦いだが、将棋も戦争も、古今不易の戦略は唯一つ、「数多ければ敵に勝つ」であるという。戦国時代に日本国の制覇を目指した織田信長は桶狭間の合戦では奇襲戦法を止むを得ずとったが、その他の戦いでは敵の軍勢が1万であれば2万の軍勢で戦い、敵が3万であれば5万の軍勢で向かった。天才的な武将であった武田信玄はその生涯を通じて、その軍勢は2万を越えることはなく、上杉謙信は1万5千を越えなかった。これに対して、「数多ければ敵に勝つ」ことを基本戦略とした織田信長は味方の兵力の増強、武器の拡充に最大の力を傾注して、版図の拡大を目指した。 将棋の場合も「心・技・体」の総合力が相手より優れた者が、長い目で見れば勝つのである。心身を整え、技術面においては相手より、多くの時間をかけて研究する者が、長期的に見て勝者になるのである。将棋界に身を投じる者は、いずれ劣らぬ才能の持ち主であるが、自己の才能を過信して努力を怠る者は、長期的に見れば絶えず努力する者に追い越されるのである。 「心身を整え、技術面においては相手より、多くの時間をかけて研究する」というごくあたりまえのことをするか、しないかが一流棋士の唯一の条件だという、まことに明快な論旨であった。 米長九段の名人位獲得は、(研究量の)「数多ければ敵に勝つ」の戦略の賜物であった。天才にありがちな自己の才能への過信を戒め、名人位獲得のために、これまでの生き方まで改めたことによる。 『遽伯玉(きょはくぎょく)は、年五十にして四十九年の非を知る』 『淮南子(えなんじ)』(前漢時代の書)にある言葉である。 遽伯玉は中国・春秋時代の衛の大夫。孔子と同時期の人で、論語にも登場する孔子の尊敬した政治家である。この遽伯玉は50歳になったとき、これまでの49年の生き方がすべて過ちであることを知って、生き方を変えたのだという。 一流の人の生き方は古今ともに相通じるものがある。
(次回は金綱久夫さんにバトンタッチ)
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