リレーエッセーその156

「ロシアで将棋」に至るまで、私の軌跡

鈴木良尚



 私は69才の昨年、ロシアのサンクト・ペテルブルグに半年間滞在し、第83学校(通称薔薇の学校)の課外授業で生徒たちに将棋を教えて来ました。この学校には1年生から11年生まで約千人居ましたが、3年生から8年生までの希望者を対象としました。他に市の将棋クラブ(週一開催)や退役将校クラブにも顔を出し、夏休みには近隣のフィンランドやウクライナに出掛け、初心者に対する講義や多面指しなど精力的にこなして来ました。ロシアの新聞にも取り上げられ、元気の良いお爺さんとか、サムライ・チェスの伝道に来たとか、報道されたりしました。詳細は既に新聞(週刊将棋)や雑誌(近代将棋)に載っていますが、どうしてこんな物好きな事をするに至ったのか、この場を借りて軌跡を振り返ってみます。



 思い起せば30年前、1976年のことです。子供のころから将棋の大好きな私は、会社からドイツ駐在を命ぜられて赴任するとき、彼の地で外国人と将棋が指せたら、さぞ面白いだろうなと思い、千駄ヶ谷の将棋会館に情報を求めに行きました。すると、そのころ新宿道場によく来る「グリンドン・タウンヒルさんに聞いてみろ」と言われ、お会いしてみると「ロンドンのジョージ・ホッジスさんの所へ行け」という御指示でした。そして、赴任後の夏休み、当時ロンドン将棋トーナメントを主催していたこの将棋活動家と会うことが 出来ました。これが私の外国人との将棋の関わり事始めです。



 彼は当時「SHOGI」という英文の季刊雑誌を発行していて、将棋のヨーロッ パでの普及にこれ努めていました。私も何か記事を書けと言われて珍しい角頭歩戦法 などを紹介することになりました。彼の家には家族で遊びに行ったりして、よく駒落 ちで将棋を指しましたが、強烈な個性の持ち主で 、雑誌(将棋ペン倶楽部)に紹介したこともあります。



 彼の紹介でヨーロッパに散在する多くの外国人の棋友を知り、ドイツのブルグドルフに住んでいたマックス・ピエツォンカ博士は近くでもあったので、家族で冬休みにお邪魔し将棋を楽しみました。将棋を通じれば知らない人ともすぐ仲良くなれます。



 帰国してからは、郵便将棋で交流を維持するよう努め、数年にわたり国際郵便将棋国別団体対抗戦なども手掛けました。また、仕事でヨーロッパ出張の度ごとに、日曜にはその国の誰かと将棋を楽しめるようなスケジュールを組むことに苦心しました。でも、うまく調整できず泣く泣く将棋をあきらめたこともありました。こうして私は様々な土地を訪ねては、その国の人たちと将棋を楽しむ、という趣味が出来上がってしまったのです。トーナメントは各地でありましたし、個人の家を訪ねたこともあり、イギリスではロンドンの他、アッシュフォード、ウオーキングハム、バース、ハイヅなど、フランスではパリの他ジョン・ホール教授の住む将棋の拠点リールには3回も足を運びました。リールで大学生を対象に行った7面指しは今でも忘れられない良い想い出になっています。更に、ドイツではハイデルベルグやニーハイム、あとベルギーのゲントなど、そこで知り合った人たちの名前をあげればキリがありま せん。



 私が会社を定年退職した今から10年前の1995年、「かけはし」を機関紙とする「将棋を世界に広める会」が発足しました。将棋をもっと外国に広めたいと考えている同志が集まって出来た団体で、個人的な草の根活動を、より組織的に強力に進めることが出来ます。



 例によって私が北京に行く用事のついでに北京で将棋を指したいと思い、新聞記者の山田史生さん、商社員の森本幸男さん他、多くの方々のお世話になって、北京市崇文区の少年宮で将棋を楽しんだあと、李民生先生から是非子供達を日本に招待して欲しいと頼まれた時、これは個人ではとても難しいと思いました。でも、出来たばかりの「将棋を世界に広める会」の真田尚裕理事長に相談を持ちかけたところ、「会としてやってみましょう」という一言があり、何とか多勢の力を結集して初の子供将棋親善使節来日の実現に漕ぎ着けることが出来たのです。



 その後は主に団体で中国、ロシア、スウエーデン、ウクライナなどを次々に訪 れ、外国人との交流対局を楽しんで来ました。かくして、冒頭のロシアで将棋半年間 に至ったわけですが、さて、この次ぎはどこの国に棋跡を残しましょうか?これって 人生を楽しく生きる妙薬かしら?



 なお、「かけはし」収載の記文は会のホームページから「かけはしアーカイブズ」を選んで閲覧することが出来ます。御用とお急ぎでない方はどうぞお寄り下さい。



写真はロシアの子供たちです。

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(次回は宇都宮靖彦さんにバトンタッチ)